TETRA'S MATH

数学と数学教育
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遠山啓はベクトルをどう教えるべきだと語っていたか

 久しぶりに遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにか〈1〉』を開いています。きょう読むのは、「なぜベクトルを教えるか」(1965年)です。

 今現在、高校数学におけるベクトルの位置どころ、その教え方についてどのような議論があるかどうかは把握していないのですが、少なくとも1960年代においては、「ベクトルは矢線で教えるべきか多次元量で教えるべきか」という論争が行われていたようです。

 遠山啓は、ベクトルは多次元量として教えるべきだと主張していました。矢線で教えるのは適切ではなくなった、と。数学の内部をみても、隣接諸科学のことを考えても、n次元あるいは無限次元のベクトルを扱う部門がますます多くなり、3次元の壁が越えられないという致命的な欠陥をもつ矢線ではもうまにあわなくなっている、と。

 「ベクトルは矢線だ」とがんばっている人の言うことをきいていると、要するに、「自分は学生時代にベクトルは矢線だと教わったから、それ以外の考え方は困る」といっているだけのようにとれる、とも遠山啓は書いています。自分もベクトルは矢線として教わったし、本にもみなそう書いてあったが、当時はそれでたいていまにあったのに対し、これからはそうはいかない。拡張のきかない矢線のベクトルよりは、はじめからn次元を考えることのできる多次元の量としてのベクトルから入ったほうが教育的にもすぐれている、というのが遠山啓の考えでした。

 私は以前、かけ算とたし算の関係 (2009/01/31) において、「あとのことをいま考えなくてもいい」というようなことを書きました。「×1」「×0」や「×分数」「×小数」のことまで考えて、そこでとまどわないようにするために、かけ算の定義を考えなくてもいいのではないか、というふうに。

 でも、ベクトルに関してはなぜか、遠山啓の意見に「なるほど」と思うのです。本来、ビジュアルなものを介在させてものを考えることが好きな自分にとっては、幾何学的な矢線のほうがわかりやすそうなものですが、なぜかそう感じない。

 現在はどうなっているのかな?と手元にあるちょっと古い教科書(平成9年発行)をのぞいてみたら、依然として有向線分として定義されているようです。

 遠山啓は、多次元量に反対している人のほんとうの気持ちは、「多次元の量のほうが、理論的にはすぐれているが、教えたら、わかりにくいだろう」というところいあるのかもしれないが、ほんとうにそうだろうか?ということも書いています。また逆に、矢線はほんとうにわかりやすいのか?と。矢線をかくだけならやさしいが、計算のレールにのせなければならない、と。(私がベクトルが面倒だったのは、計算のレールにのせる作業が翻訳作業に思えたからかもしれません)

 まず、ベクトルとベクトルの加法や減法を定義し、そのあいだに成立する交換・結合の法則や、スカラー乗法とのあいだにある分配法則を説明しなくてはならない。また、ベクトルを本格的な計算の軌道にのせるには、座標を設定して、それを成分に分解する必要があるけれど、座標の選び方は任意なので、成分への分解のしかたもひととおりに定まらない。また、ベクトルの和の成分は各成分の和に等しくなることを証明するのに立体幾何の定理を使わなければならない。それはかならずしもやさしくはない。

 むかしベクトルを矢線で教わった人は、こういうことをくぐりぬけて理解できたのであり、元来すでにわかっていることはなんでもやさしく見えるものなのだ、しかし、これから矢線でベクトルを教わる人は、これだけのことをくぐりぬけなければならないのだ、と遠山啓は続けます。また、多次元量では、いつでも矢線にうつることが容易である、とも。

 「多次元量」ときくとなんだか難しそうにもきこえますが、なるほど遠山啓の話をきいていると、別に難しいものでもなさそうです。「次元」というものを、いわゆる幾何学的な1次元、2次元、3次元、・・・で考えずに、「ある物質もしくは物体の属性としての量」と考えれば、身のまわりにある、ありふれた話に思えてきます。

 たとえば、私が作ったアクリル毛糸1玉分のたわしには、「材料費:220円」「重さ:45g」「使用した毛糸の長さ:67m」「面積:275cm^2」という属性(としての量)があったわけですが、こうやってとりだした物体の4つの属性を組み合わせたもの[220円,45g,67m,275cm^2]が、すなわち4次元の量と考えることができそうなのです。矢線で考える場合、2次元の座標平面では[x成分,y成分]あるいは[たて,横]、3次元の場合は[x成分,y成分,z成分]あるいは[たて,横,高さ]となり、イメージできるのはここでおしまい、ということになるのでしょう。
 
 なぜいきなり遠山啓の数学教育論をのぞいているかというと、郡司ペギオ−幸夫 『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』の「第6章 因果論・宿命論の相克と量子論」のなかにテンソル積というものが出てきていて、あれこれ思いをめぐらせているうち、ここにたどりついたのでした。
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