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数学と数学教育
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客観的な出来事系列と主観的時間系列の調停 (2)

 客観的な出来事系列と主観的時間系列の調停 (1)のプロセスを図にまとめると、次のようになります。

 

 上の図は、郡司ペギオ−幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p167図5−16を、私なりの理解で別の例で書き直し、説明を加えたものです。

 郡司さんいわく、この調停の本質は、「主観的な出来事系列の分節・粗視化が、出来事系列それ自体とすら区別できないという状況にある」と。そしてこの相互作用のモデルを使ってデジャブを説明しており、これが現在に帰属しない過去の話へとつながっていきます。

 上記のような2つの系列の相互作用は、ブール代数に対応した整ったハッセ図を出来事系列とした場合にも考えられますが、そこでは矛盾が生じず、実質的に意味ある調停が行われません。

 これまで、「整った」とか、「整いすぎていない」といった曖昧な表現ですませてきましたが、その意味を数学の言葉でいえば、「分配束であるか否か」ということになります。整っている=分配束である、整っていない=分配束ではない、ということです。分配束については、続く第6章でも検討されていきます。

 私は、郡司さんのこのモデル自体に対してはまだ十分に理解・納得していないというか、「こんなことよく思いついたなぁ〜!」という印象を持ったままなのですが、第5章の締めの部分にはそれなりに腑に落ちるものを感じました。「そういうことってあるかもしれないなぁ〜」と。

 実際、脳において客観的時間、主観的時間がコードされ、絶えず調停されるなら、そこには順序構造によって抽象化される構造が認められるだろう。さらにその構造が、脳の他の領域からモニタリングされ、全体として見通しやすくなるには、全体性を有した束であることが望ましいだろう。さらにB系列とA系列の絶えざる調停は、できるだけ両者の間に齟齬をつくりださない仕組みをもたらすかもしれぬ。我々の観点で言うなら、それはB系列が分配律の成り立つ束(分配束)へ近似されるかのように修正・維持されることを意味する。もし人間が発達の過程でそのような時間構造を持つように成長するなら、ある年齢を過ぎると主観的時間と客観的時間の齟齬が減ることになる。そのことは、デジャブ体験が成人を過ぎると極端に減ることを理解するものとなるかもしれない。

 第5章に取り組んだあと、第6章、第7章をざっとながめてみて、ようやくこの本の全体像が見えてきた気がします。第3章と第4章はまだ理解できていないし、量子論の第6章も認知的時間の第7章もそれなりに骨がありそうなのですが、郡司さんが何を見つめ、何を考え、何を語ろうとしているかが、以前よりも少しつかめてきたように思うのです。

 なお、第5章では実は、「アジャンクション」という概念が大変重要になっています。でも、TETRA’S MATHではアジャンクションに一切触れずに話をすすめてみました。アジャンクションというのは圏論でいうところの「随伴関係」をさすのだろうと推測しています。気が向いたらそのうち勉強しようと思っています。

郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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