TETRA'S MATH

数学と数学教育
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時間と変化についてラッセルはどう考えたのか

 入不二基義『時間は実在するか』の第二章を読んでいます。

 1つの出来事も、出来事どうしの関係も、固定的で永続的なものである。しかし、出来事に1つだけ変わる特性があり、それがA特性(未来である/現在である/過去である)である。つまり、A特性のみが出来事に「変化」を与える。したがって、時間にとって本質的なのはA系列(過去・現在・未来)だ。というふうに、マクタガートは考えたようです。

 これに対して、A系列は時間にとって必ずしも不可欠ではないという反論もあり、その反論が3種類に分けて示されています。

  A系列の消去を考える議論
 ◆_誘の話における時間を考える議論
  複数の実在する時間を考える議論 

 ◆↓は今回は割愛して、,世韻里召い討澆泙后ここでは、時間と変化についてのラッセルの見解が示されています。ラッセルのことよく知っているわけじゃないんだけど、それでもなんとなく、ラッセルらしいなぁ〜なんて思っちゃいました。

 ラッセルは、A特性(未来である/現在である/過去である)を、B特性(より前である/より後である)に置き換えようとしたらしいのです。


 ある出来事Eが「未来である」。
  →そのように意識したり発話するという出来事「より後」に、
     出来事Eがある。

 ある出来事Eが「現在である」。
  →そのように意識したり発話するという出来事「と同時」に、
     出来事Eがある。

 ある出来事Eが「過去である」。
  →そのように意識したり発話するという出来事「より前」に、
     出来事Eがある。


 たとえば「源義経の死」で言えば、次のようになります。
「源義経の死は、まだ未来のことである」
 →「源義経の死は、この言明の発話よりも後のことである」

「源義経の死は、まさに現在のことである」
 →「源義経の死は、この言明の発話と同時である」

「源義経の死は、もう過去のことである」
 →「源義経の死は、この言明の発話よりも前のことである」

 
 というラッセルの考え方は、意識したり発話する主体が存在してはじめて成り立ちます。つまり、主体が意識したり発話したりするという出来事と、その意識や発話によって言及される出来事という、2つの出来事の順序関係をB系列に落とし込んだものになっています。

 そしてラッセルは、真理値(真である/偽である)の交代によって変化を捉えようとしたらしいのです。たとえば、「火かき棒は熱い」から「火かき棒は冷たい」への変化はどういうことになるかというと、「時点Tで火かき棒は熱い」は真であるが、「時点T´で火かき棒は熱い」は偽である、というふうに。つまり、変化を出来事の変化としてではなく、物の性質・状態の変化として考えようとしています。

 しかしマクタガートに言わせると、これはちっとも「変化」ではないらしいのです。なぜならば、「時点Tで火かき棒は熱い」こと自体は、時点T´になっても、さらに10年たった時点T´´になっても変わることはないから。それぞれの時点でそれぞれのあり方に固定されており、A系列のようにある状態から別の状態へと「現在」が移動していくという考え方を採用しないままなのであれば、単にそれは、ある時点である状態、別の時点で別の状態であるというだけのことなのだ、と。

 とりあえずここまできくと、マクタガートに分がある気がする私。

 また、最初の主体の想定に関しても、意識・発話する出来事と、それによって言及される出来事の前後関係で「未来−現在−過去」は説明できないとマクタガートは反論しているようです。ここの部分は「もう一声!」な感じがしましたが、要は、出来事どうしの関係で考えるとどうしたって固定的なものにならざるを得ず、1つの出来事に対する「未来−現在−過去」という動性は説明できない、ということなのだろうと現時点では理解しています。のちにトークンという概念を使って議論されるもよう。あ、トークンってそういう話なんだ。

(それにしても、第一章を要約している段階から感じていたことですが、言葉を厳密に使いたい人にとって、この議論って気持ちわるくって仕方がないでしょうね(^^;)

 そんなマクタガートの反論に納得できるかどうかはおいといて、なんだか、いろいろ、わかってきそうな気がしているきょうこのごろ。郡司ペギオ−幸夫『時間の正体』にもどるのが楽しみだ。
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