TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 入不二基義 『時間は実在するか』 | main | マクタガートのA系列・B系列をブログのエントリで考える >>

アリストテレスとアウグスティヌスの「実在」の違い

 アウグスティヌスについては、永遠の、いま私が思う遠山啓の「量の理論」と「現代化」の関係というエントリで少し触れました。遠山啓『量とはなにか−機戮らの引用・要約として。カントールが実無限のよりどころを哲学に見出そうとしてたどりついたのがアウグスティヌスの「永遠の、いま」だった。つまり、カントールの集合論は、アリストテレス流の“可能的無限”のかわりにアウグスチヌス流の“実無限”を導入したことから始まったものだ、という話です。

 入不二基義『時間は実在するか』第一章では「実在」の意味が3つに分けて書かれてあります。第一の意味は、「単なる見かけ(仮象)ではなくて、ほんとうに存在しているもの」という意味。第二の意味は、「心の働きに依存せず、心の働きから独立に存在するもの」という意味。そして第三の意味は、「一挙に成立している完全なる全体である」という意味。単語でまとめれば、本物性・独立性・全体的ということになります。ゼノンのパラドックスは、第一の意味においての時間の非実在性を示す試みとして出てきます。

 そして、アリストテレスもアウグスティヌスも、どちらも上記の第二の意味においては、時間の非実在性を主張していたようです。つまり、時間は心の働きに依存するものであり、心の働きから独立には存在しない、と。

 ただし、アリストテレスは、心の働きによって分節化されなくても、基体としての運動(動き・変化)は存在すると考え、一方、アウグスティヌスは、神の「永遠」こそが、ほんとうの姿(実在)であると考えたのだとか。つまり、アリストテレスは、心の働きから独立してそれ自体である「実在」を、運動という流動的なものと考え、アウグスティヌスは、時間という仮象の向こう側の「実在」を、神の永遠という無時間的なものと考えていた。

 というアウグスティヌスの実在観からは、上記の第三の意味での実在(全体性)を取り出すこともできます。
 
 入不二さんが言うには、マクタガートはこの点に関して、アリストテレスではなく、アウグスティヌスの系譜に属するのだそう。なぜならば、マクタガートは「実在」を流動的なものとしてではなく、無時間的で永遠的なものと考えているから。あらま、そうなんだ。

 さらに、アリストテレスは、時間とは運動そのものではなく、あくまで、運動の「数」なのだ、と考えていたようなのです。数とは、連続的な運動に与えられる分節・区切りである。ああ、この考え方が「今」のディレンマにつながっていくのだな。

 で、アウグスティヌスの場合、「実在(神)」は「永遠」であると考え、過ぎ去ることなく全体が同時に存在すると考えていたようですが、神の永遠と人間の時間とに、まったく接点がないわけではなく、その接点は「現在」にこそある、としていたらしいのです。

 アウグスティヌスにとっても、「現在」は時間的な幅を持たないものだった。幅を持たないのだからそこでは時間は経過しえず、時間的なものにはなりえない。そのような「現在」は、神の永遠を指し示している。「現在」が指し示す「永遠」とは、時間の長い持続のことでもなく、抽象的な単なる無時間のことでもなく、それは、神の永遠とつながるような、非時間的なあり方(瞬間における永遠)のことである。

 そんなこんなで、アウグスティヌスにとって、「現在」というのは、未来や過去と対比されるものではなく、過去−現在−未来という水平的な関係の中にあるものでもなく、神との垂直的な関係の中にある「現在」であり、それが「永遠の、いま」ということだったようです。

 だとしても、私たちは時間の経過が存在すると思っているし、未来や過去が存在すると思っている。このあたりはどう考えればいいのよ?というと、アウグスティヌスは『告白』において、「過去のものの現在は記憶」「現在のものの現在は直覚」「未来のものの現在は期待」であるといったようなことを書いているらしいです。

哲学・思想・科学論 | permalink
  

サイト内検索