TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< ズッキーニ/ラタトゥイユ/内部観測/数学 | main | 存在モデルby郡司を単純にベキ集合の話として考える >>

私が理解するところの「同一性」と、内部観測by郡司

 ある日突然このブログのテンプレートを変更したとしても、TETRA'S MATH であることに変わりはありません。また、エントリのいくつかを削除しても TETRA'S MATH だろうし、日々エントリを書き続けていても、TETEA'S MATH のままだと思います。

 ブログタイトルを変えたらそれは TETRA'S MATH ではなくなるけれど、URLもエントリにも変化がないのであれば、もと TETRA'S MATH ということで、やはり同じブログをさすと考えていいような気がするし、URLが変わっても、このブログをまるごとどこかに引越しすれば、やはり同じブログと言っていいように思います。

 そのすべてが変わったら、もはや TETRA'S MATH ではないかもしれません。

(でも、上記の1つ1つを変えても同じブログであるといえるならば、それらを少しずつ徐々にかえていってもどこかの段階までは同じブログなのだろうか? どこかの段階で「もはや以前と同じブログではない」と言えるとすれば、その境目はどこにあるのか? それは、「もはやTETRA'S MATHではない」と思ったときであるか。)

       *       *       *

 ズッキー二が実って、茎から切り離されて、キッチンに持っていかれて、洗われて、切られて、加熱されて、味つけされて、お皿にもられて、食べられる。その刻々でズッキー二の置かれた状況は、ときにささやかに、ときに劇的に変化していますが、にも関わらずズッキー二はずーっとズッキー二のままです。そして、食べられたあたりでズッキー二はズッキー二でなくなるのでしょうか。

 また、野菜たっぷりパスタではじめてのズッキー二体験をした彼女は、数日後にスーパーの野菜売り場で2度目のズッキー二体験をするわけですが、彼女がパスタとともに食べたズッキーニと、スーパーで売られていたズッキーニは、違う個体です。にも関わらず、彼女はそれをこのあいだ食べたのと同じズッキー二と認識し、ズッキー二体験を重ねたことになります。そして1年後に知人から黄色いズッキー二をもらい、今度は個体のみならず色さえも違うわけですが、だとしても、さらにズッキー二体験を重ねることになるわけです。

 はじめて野菜たっぷりパスタでズッキー二を食べたとき、彼女は友達が教えてくれたズッキー二という野菜をまだわがものとはしていない状態で、友達のことは十分に信用しているにも関わらず、「?」が漂う状態でズッキー二を食していたことでしょう。しかし、その経験が、のちに彼女がズッキー二をズッキー二と認識する根拠となっていきます。そして、知人から黄色いズッキー二をもらうころには、彼女の記憶の中の「野菜たっぷりパスタのズッキー二」は、ズッキー二としてのアイデンティティを十分に確立しているのではないでしょうか。
  
       *       *       *

 結局、郡司ペギオ-幸夫さんが『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』第4章の1節の前半で言おうとしていることは、ひらたくいうとそういうようなことなのかな(ただし、カッコ内はのぞく)……というのが現段階の私の精一杯の理解です。

 が、そういう書かれ方は一切してありません。どういうふうに書いてあるかというと、こんなふうに書いてあります。(以下、要約)

 対象Xに対する内部観測者の描像は、「Xは、Xであるところの保存則を満たす限りXである」、「XはXの同一性を維持する限りにおいてXである」といった、ある種、同義反復的言明、もしくは自己言及的形式を取ることになる。問題は、このような自己言及的言明に意味があるのか否かを詮議することではない。我々はつねに、「XであるところのX」を受け入れてしまっており、むしろ論理的には無意味な、もしくは矛盾でしかないような言明を、あたかも有意味のように運用することで、Xを指示し、Xに気づくのである(そして、そのことこそが、時間に関係している)。我々が当面考えねばならないことは、「X」と「Xであるところ」の二重性それ自体によって、「Xであるところの保存則」を、より普遍的な概念として理解できるか、ということになる。

 「Xであるところの保存則」を、「X」と「Xである」という二重性によって置き換えてみる。それは「X」=「Xである」のような形式で、閉じた一個の象徴を形成することを意味するものではない。両者の間には現実の溝、外に通じる空隙があり、外部からの関与が絶えずここに吹き込み、両者の乖離を維持するとともに交流させる。「X」と「Xである」ことの共立が、Xに気づくという一個の現象を成し、無意味な自己言及的形式すら、有意味のように引用できてしまう。

 この二重構造は、次のように図示できる。(黒い部分がもとの図で、青字は私が本文を参考に加えたコメントです)

 

郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

サイト内検索