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数学と数学教育
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「担体」という言葉/郡司さん&松野さんのあとがきから

 郡司ペギオ−幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』のあとがきは、次の3行で締められています。

 時間から時計を発想する。そうすることで、本書で見出したようなデジャブや因果関係の逆転知覚の構造が、分子レベルの現象にさえ見出せるだろう。それは、物質現象の中に或る種の時間を知覚する主体、変化を認識する観測担体を見出すことに他ならない。

 いつもならば「主体」という言葉に反応しそうな自分ですが(実際、したけれど)、この場合はどちらかというと「担体」という言葉に反応してしまったのでした。

 「担体」というと、松野孝一郎『内部観測とは何か』のあとがきを思い出します。本自体は2000年に発行されているのですが、松野孝一郎さんは1971年のメモ書きを転記してあとがきに替えておられます。このあとがきは切ないです。切実です。切ないですが、松野孝一郎さんの文体が硬質なので、変に情緒的ではありません。まず、書き始めはこんな感じです。

 ものを言うことを志すことは「私」にとって否定し得ない一つの事実であり、現象である。この意志の表明を行う「私」を当の主観自らが観想するとき、完結しない不全さがあることに気づく。ものを言う、との行為は意志を担う基体があって初めて可能となることがらである。だが、その意志の担体としての「私」はどうしてその担体になりうるのか? しかもこの問いかけは、子供がないものねだりをしているのと、どこが違うのか?

 そして、書き終わりはこんな感じです。 
 ものを言いたいとする「私」は自分がどうしてものを言うことが出来るのかを知り得ないままに、その行為を先取りする。向こう見ずと言われようとも、有限者である実践主観は行為を先行させ、その後に認識、観照を行う主観を引き連れて行く。この先取りが果たしてまともなことであるのか、あるいは荒唐無稽な早とちりであって、後で前言を翻さなければならない羽目になるのかは、あくまでも結果次第である。ものを言いたく思うものは誰しも不定、不全な経験世界の内に住みながら、その完遂が不可能であることを承知しつつも、そこでの不定さ、不全さを我が身に替えて僅かでも確かなものにしようとする。前もって成功を保証するものはどこにも見当たらない。加えて、口を閉ざして黙し続けることは、それよりもさらに過酷な苦行となる。

 担体という言葉は、ウィキペディアによると「吸着や触媒活性を示す物質を固定する土台となる物質のこと」だそうで、英語表記はsupportになっています。担体とsupportとでは、ずいぶん雰囲気が違うようにも感じます。検索すると、生物処理担体とか糖輸送担体といったような言葉がひっかかってきます。 

 担体。担う体、担い手。一見、主体とは対極にある概念のようにも感じられます。と、私が感じるのはなぜなのか。

 郡司さんは、「時間を知覚する主体、変化を認識する観測担体」というふうにして、「担体」という言葉を出してきています。そして松野さんは、意志を担う基体、意志の担体というふうにして、「担体」という言葉を出してきています。意志する「私」の担体とはなんであるか。「私」そのものは、担体ではないのか?

 意志する「私」を支える担体が何であるかが未だ分からないままに、それを先取りして「私」はものを言うことに専心する。その志向された「もの言い」において、ある統一体を言い表わそうとするとき、それがまともなことである、とする担保をどこから確保すればよいのか? さらに、言い表された統一体とおぼしきものはそれを言う「私」のいかなるところを代弁しているのか、「私」の全てか、それともささやかな一部でしかないのか?

 松野孝一郎さんは、「この問い自体は根拠追求を旨とする形而上学ではなじみであるが、それの発生現場は日常卑近なところにある。」とも書いておられます。

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