TETRA'S MATH

数学と数学教育
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ズッキーニ/ラタトゥイユ/内部観測/数学

 お店で野菜たっぷりのパスタを食べていて、その中に緑の縁のある薄色の半月切り状のものを見つけて、それがなんであるのか認識できなかったとします。食べてみても、味がするんだかしないんだかよくわからない。食感もなんと表現していいのかわからない。どう考えてもきゅうりじゃないし、ナスでもない。野菜ではあると思うけど、何かしら、これ。 

 過去の記憶をたどりながら考えこんでいても結局わからないので、向かいの席で同じ料理を何も気にせずパクパク食べている友達に、「これ、なんだろう?」ときいてみます。友達は「ん?」と彼女がフォークにさした半月切りの野菜を見て、こともなく答えます。「ズッキーニじゃん」と。しかし、きいた彼女は反応がいまひとつ。「ラタトゥイユとかによく入ってるやつだよ」 悲しいかな、質問した彼女はラタトゥイユがすでにわからない。

 それが彼女のはじめてのズッキーニ体験、ラタトゥイユ体験でした(ちなみに、この彼女は私でもなくモデルとなる知人がいるわけでもなく架空の人物です、はい)。

 彼女は数日後、スーパーの野菜売り場で、キュウリより少し太い緑色の細長い野菜を見つけ、そこに「ズッキーニ」と書かれてあるのを見つけます。これまでとおりすぎていた売り場でした。「ああ、これがズッキーニなのね。切る前はこんなんなんだ」 それが彼女の2度目のズッキーニ体験でした。

 ちょっと買ってみたくなった彼女はズッキー二を購入してCOOKPADを見ながらラタトゥイユを作りました。これが彼女の2度目のラタトゥイユ体験でした。はじめてにしてはなかなかおいしくできました。そして、同じレシピで、いろいろな人がいろいろなラタトゥイユ体験をしていることを知ります。

 それからしばらくズッキーニと縁がなかった彼女ですが、約1年後に、知り合いから自宅で作ったというズッキーニを数本もらいました。そのズッキー二は黄色でした。彼女は首を傾げます。「ズッキーニって緑色じゃなかったっけ?」  知人は答えます。「黄色いのもあるのよ。うちではよくカポナータにして食べている」と。彼女はさっそく、「カポナータ」を検索します。そしてまた首を傾げるのでした。「ラタトゥイユとカポナータって、どうちがうんだろう……」

       *       *       *

 なんでこんなことを考えているかというと、そろそろ……というかものすごく久しぶりに郡司ペギオ−幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』の続きを読もうとしていて、「第4章 内部観測からA系列・B系列へ」を読み始めたら、やっぱり「内部観測」という概念自体がなかなかつかめずに中身が頭に入ってこなくて、うーんうーんとうなっているときに、まさにその「内部観測という概念」という対象Xに対して、私が経験を積んでいないからこういうことになるのではなかろうか?と思ったしだいなのです。しかも、内部観測という言葉がさすところは、私はもう十分に体験ずみというか、日々やっていることなのだろう、というところまでは察しがつく……にも関わらず、です。

 内部観測をできるだけ正しく理解したい。松野孝一郎さんは、この概念で何を伝えようとしているのか。郡司ペギオ−幸夫さんは、この概念を使って何をしようとしているのか。ということを理解するために。というときの、正しい内部観測とはなんであるか。ズッキー二がズッキー二であることがわかるように、私は内部観測を自分の中に取り入れる日がくるのか。正しいズッキー二の正しさとは何か……。

 で、ついでにこんなことも思いました。「数学」だって、同じかもしれないなぁ、と。

 「数学」がなんであるかは、その人のこれまでの「数学」体験に拠ってたっているのかもしれない。しかし、その人が「それは数学だ」と信じ込むことだけでは成立し得ず、「数学」という概念をある程度、人と共有していなければならないし、共有していると感じられなければならない。という話になると、辻下徹さんの言葉を思い出します。

 数学の中で出てくる概念は、大抵、「定義」から始まるのに、数学という教科・学問そのものの意味は、厳格な「定義」からは始められないのが(と私は思っているのですが、どうでしょうか?)、面白いなぁと思います。

 しかし、たとえ、「数学とはなんですか?」という問いに対して、過不足なく明確に答えることができないとしても、 「そんなものは数学じゃない」という感覚をもつことはできるでしょう。そのときに、なぜその人が、「そんなものは数学じゃない」という感覚をもちえたかといえば、やはりその数学は、その人のこれまでの数学体験にそぐわないからだと思うのです。そして、なにゆえ数学ではないのかと問われたときに出てくる答えが、その人にとっての数学ということにもなる。たとえば「厳密ではないから」という答えが出てきたとき、その人にとっての数学の必要条件、あるいはメインの条件は、「厳密であること」になるのだろう。「科学」しかり、「学問」しかり、なのかもしれない。

 ズッキー二がズッキー二であることを知るということは、その色や形や大きさ、味や食感、料理方法を情報として知ることだったり、実物を見ることであったり、栽培したり、料理したり、料理したものを食べたりするということなのでしょう。しかし、体験するだけでは、知ることはできないのでしょう。それがズッキー二であることを認識しないと。

 そして、ひとたびその人なりの経験と定義(のようなもの)でズッキー二が認識されると、それが半月切りにされて加熱されていようと、丸ごとスーパーで売られていようと、黄色であろうと、ラタトゥイユに入っててもカポナータに入っていても、それはズッキー二であると認識できるのでしょう。もしかすると、細長くなくても、黄色と緑のまだらでも。ズッキー二はズッキー二なのだから。

 しかし、「ズッキー二」は野菜の名前であり、「ラタトゥイユ」は料理の名前であり、「内部観測」は概念の名前であり、「数学」は教科・学問の名前です。これらを全部同じ土俵で考えていいのだろうか。

 内部観測という概念についてズッキー二に思いをめぐらせていたら、なんとなくフレーゲのことも思い出しました()。いまの私のこのもやもやは、きっと実在論・反実在論にもつながっていくと思うのですが、何がどうつながっていくのか、いまはさっぱりわかりません。いつかつながる日がくるだろうか?

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