TETRA'S MATH

数学と数学教育
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野矢茂樹『無限論の教室』のあとがきと内部観測

 最近は図書館に行っても、目的がないときは「数学コーナー」に立ち寄らないようになっていたのですが、先月、借りていた本を返しにいったときになんだか気がむいて、久しぶりに数学コーナーをのぞいてみたのです。で、背表紙を眺めていたら、ふと、野矢茂樹『無限論の教室』(1998年) が目にとまったしだい。「あらま、こんなところで野矢茂樹」なんて思いながらとりあえず手にとり、図書館内の椅子に座ってぱらぱらとページをめくってみました。

 もとより読み込む予定はなく、オープニングや途中の何ページかをパラパラとめくっただけで、内容はほとんど読まないまま、タジマ先生のキャラに「くくくっ」と心の中で笑いました。なるほどあとがきにあるように、著者はこの本を書くのが楽しくてしかたなかったことと思います。たぶん、書いた本人がいちばん楽しかったんじゃないかしらん!?

 で、あとがきを続けて読んでいたら、野矢茂樹と池田くんという学生の文通めいたやりとりの話が出てきて、それに妙に心を惹かれたのです。そのときは、借りるほどではないかな……と思って本棚にもどし、野矢茂樹と池田くんの“「答え」が入れ子になったやりとり”のことだけ頭に入れて帰ってきたのですが、このたびエントリを書くにあたり、図書館から借りてきました。

 そのやりとりとは、次のようなものです。
 本書の内容は、私が大学で一九九六年度と一九九七年度の冬学期に行った講義に基づいている。そして、一部の学生がこの講義をとても楽しんでくれていたことが、励みになっている。とくに、池田くんには感謝したい。池田くんを含む数名の学生は、講義が終わると必ず私に論戦を挑んできた。そして池田くんと私との間には何回かの文通めいたやりとりさえ行われた。彼から長い質問状が手渡され、私が「池田くんに答える」という返事をしたためると、次には「「池田くんに答える」に答える」が提出され、私はさらに「「「池田くんに答える」に答える」に答える」を書く、といった状態だった。本書の中に、彼からの質問がいくつか反映されている。
 本文の内容との関わりはともかく、上記のやりとりそのものを読んで面白いなぁと思うのは、最初の長い質問状をのぞいて「問い」がないことです。「問い」がないのに、ひたすら「答え」が続けられていく。

 となると思い出すのは「やぎさんゆうびん」のこと。しろやぎさんもくろやぎさんも、「さっきの手紙のご用事なあに」という手紙(最初の1通をのぞく)を出し続けます。こちらには「答え」がなくて「問い」だけがあります。ひたすら「問い」が続けられていく。(歌では2番までかもしれないけれど)

 「問い」だけを続けていくということは可能だと思うのですが、「答え」だけを続けていくというのは、不可能だと思うのです。問いのあるところに答えがあるとは限らなくても、答えがあるところには必ず問いがある。問いがなかったら、それは答えとは言わないだろう。

 実際には、池田くんが受け取った「池田くんに答える」には、池田くんへの質問が含まれていたのかもしれません。また、池田くんは「池田くんに答える」を読んでも疑問が解決しなかったか、新たな疑問がわいたかで、「「池田くんに答える」に問う」形で、「「池田くんに答える」に答える」が提示されたのかもしれません。

 でも、字面では「答える」という行為だけが繰り返されているので、まるで、やりとりそのものに「問い=答えを生じさせる何か」がないように見えます。なのに答えが続けられるとしたら、それはいわゆる内部観測でいうところの「同定」なのではないだろうか。

 松野孝一郎『内部観測とは何か』(2000年)から、序章の冒頭部分を読んでみます。
 経験は間断のない観測から成り立つ。その観測は経験世界の内部のみから生じて来る。経験世界内に現れる個物は何であれ、他の個物と関係を持つとき、相手から受ける影響を特定できる限りにおいて、その相手を同定する。しかも相手を同定する、とする観測はこの経験世界の内で絶えることがない。何が何を観測しようとも、その観測は後続する、果てしのない観測を内臓する。これを内部観測と言う。

 野矢先生と池田くんのやりとりは、いわば「対話」なのであり、行き交う矢印のジグザグ模様としてとらえることもできるのですが、「答える」が入れ子になっていると、内側か外側かのどちらかに向かう運動にも思えてくるのです。木の年輪やバウムクーヘンであれば、内側である「現在→過去」に、外側である「未来→現在」がまきつけられていくイメージがあり、野矢先生と池田くんの会話も、かぎかっこでくくっていくと、同じように外にまきつけるイメージになります。

 しかし、内部観測という観点でこの会話をみると、まるで、未来は現在に内蔵され、過去は現在をとりかこみ、世界は「巻きつけられる」ものではなく、「内側から膨らんでいくもの」に感じられてくるのです。相手が膨らんでくるというより、視点が内側へずれこんでいくことで、結果的に膨らんでいくというようなイメージでしょうか。

 あのあとがきを初めて読んだ日のイメージに、いま現在の私のイメージと言葉をあてがっていくと、そういうことになりそうな気がします。

 そして、外側へ向かう動きと、内側へ向かう動きは、実は本質的には同じなのではなかろうか……というようなことを感じたのです。

 その対話の様子を次のような図で表してみました。

  

 数字を丸付きにしてしまったので、太字にかえて示すと、21に対するものなので、1の内容を含んでいます。

 32に対するものなので2を含み、 
 21の内容を含んでいるので、
 312の内容を含んでいます。

 同様に、413の内容を含んでおり、
 514の内容を含んでおり、
 615の内容を含んでいます。 

 こうなると、郡司ペギオ-幸夫『時間の正体』に出てきた「過去を指定する変換Past」を思い出します。 


 
 青い矢印は何を表しているかというと、「答え」の順序なので、時間的前後関係(前が矢印の根元、後が矢印の先)を表しているといっていいのでしょう。

 今度は、その「答え」が何に対してなされたのか、という矢印を赤で示してみます。

  

 65に対するものなので、56を引き出したことになります。また、45を引き出し、それはやがて6をも引き出します。同様に、346を引き出し、236を、126を引き出したと考えられます。

 となるとこちらは未来を指定する変換Futureになりますね。


  

 先ほどの話とからめていえば、青い矢印の図のほうが、外に巻きつけていく世界で、赤い矢印の図のほうが、内側から膨らんでいく世界のイメージにつながります。


〔2018年3月21日〕複数に分けて書いていた記事をひとつにまとめて整理しました。
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