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数学と数学教育
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デューイの二元論批判/河村望による訳者あとがき

 デューイの『学校と社会』の訳は、岩波文庫から出ている宮原誠一訳のものが定番のようですが、この宮原誠一氏というのは、科学的精神と平等と産業教育で出てきた『産業と教育』を書いたあの宮原誠一氏と同一人物かもしれません(確認はできていません)。

 で、ほかにも『学校と社会』の訳書がたくさんあるようなのですが、河村望さんいわく、これまでの訳では、デューイの主張が正しく理解されず、肝腎なところが意味不明であった、と。なぜ、そういうことになってしまったか。(以下は、私なりの理解というか、河村望さんの文章の順番を入れかえた我流の要約です)

 河村望さんが言うには、デューイは、物質と精神、客体と主体を予め区別する二元論を否定する立場から教育の問題を論じているのであり、主観の外に客観をおくところで成り立つ伝統的教育論の否定を出発点としているらしいのです。

 しかし、これまでの訳では、訳者自身の二元論的認識論の枠組みのなかで勝手に解釈されることが多かった、と。

 原田実訳『経験と教育』(1950年)の場合も、デューイが区別している伝統的教育と進歩主義的教育の対比が、前者が二元論の立場で、後者が二元論批判のプラグマティズムの立場であることが理解されず、あたかも伝統教育が封建的な伝統主義的教育で、進歩主義がいわゆる合理主義的教育であるかのようにとらえられていた、と。

 という話をきくと、戦後日本の経済界においてプラグマティズムは誤解されて取り入れられていったという堤清二の言葉()を思い出します。

 河村望さんは、直訳して意味が通るところは直訳したので、読みづらいところがあるとは思うけれど、精読すれば著者の言いたいことが伝わるようには訳してあるので、辛抱して読んでもらいたい、と書いておられます。

 いつかデューイの訳を比較してみると面白そうだなぁ!と思いました。

 さすがに『学校と社会』の第1章だけ読んでも二元論を否定する立場は感じられませんが、たとえば、デューイがいうところの「経験」というのは、自己意識的・理性的主体の存在を前提として、このような精神的主体が経験をもつとか、経験をするという意味の経験ではないということは、なんとなくわかるような気がします。上記リンク先の堤清二の話ともつながってきます。

 また、河村望さんは、「解決される」(solved)と「解消される」(dissolved)との違いについても書かれています。

 まず私が思ったことは、「解決」と「解消」は、漢字でながめると「決」と「消」の違いなのに、solved と dissolved は、前者に否定を表わすdisという接頭辞がついた形になっているというのが、これだけでもちょっと驚きでした。実際の語の成り立ちについてはよくわかりませんが。

 で、『経験と自然』の「未完の序論」の中で、「問題が妥当に解決される(solved)のではなく、むしろ問題が実際に解消される(dissolved)のだ」という議論が出てくるらしいのですが、こういうところもデューイの近代科学の認識論批判の立場を理解していないと、彼が何をいいたいのかがまったくわからなくなる、と河村望さんは書かれています。実際の訳はこんな感じです。↓

 一般に、かつて哲学において中心的であった問題も、その重要さにおいて色褪せたものになること、また、事物の普遍的で、永続的なスキームのなかの妥当性の点で問題が解決される(solved)のではなく、現実性の点で問題が解消される(dissolved)ことに注意することは、確かに教訓的である。

 また、河村望さんはあとがきでこんなことも書いておられます。

 現在の日本で、教育、とくに学校教育の問題は、大きな社会問題、政治問題になっている。そのときデューイの教育理論は、われわれが問題を解決するのではなく、問題を解消するために、一つの有力な援助になるだろう。

 解決と解消の違いはいまはよくわかりませんが、この『経験と自然』の「未完の序論」のページをざっとめくるだけでも、面白そうな話が詰まっているように感じました。

 『学校と社会』の第1章だけを読むと、デューイは中世的学問観にひきずられた伝統的教育を批判しているようにも読めますが、それのみならず(あるいは時を経て)、近代的=脱中世的な哲学にある二元論(主体と客体、心理学的なものと身体的なもの)も批判したかった、あるいはそれをこそ批判したかったのかもしれないなぁ、なんてことを感じます。

 となると、汐見稔幸先生分析の()、「経験主義は主体と客体の溝を不在と見なそうとしがちだったが、それに対して系統主義は別の角度から、やはり主体(子どもの認識の論理)と客体(教材の論理)の溝を不在と見なしがちであった」という話が、新たな奥行きをもった問題として浮きあがってきますね。ここにすでに含まれている主客問題()をどうとらえるか。デューイに言わせると、「主体と客体の溝」が「不在」なのではなく、最初から主体と客体に分けて考える、その構え自体が問題なのだ、ということになるのかもしれません。しかし、汐見先生にいわせれば、それが「不在」ということなのかもしれません。

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