TETRA'S MATH

数学と数学教育
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算数・数学が「生活」の「役に立つ」ということの意味

 まず、きのうのエントリの訂正をば。大田堯さんが書かれているのは「あとがき」ではなく「解説」でした(訂正済です)。失礼しました。

 さて、遠山啓著作集・教育論シリーズ1の中に、「生活単元学習と科学的精神」という文章が収められています。初出は1953年、国土社の『教育』において。

 ここではまず、“生活に役に立つ”というのはどういうことか、について論じてあります。「生活」ということも、「役に立つ」ということも、そう簡単なものではない、と。しかし、生活単元論者がいうところの“生活”は「消費生活」であり、“役に立つ”は「直接、役に立つ」 ということである、と。
生活単元の中で目標とされている“生活”は、かなりの公債や株式をもっている中流の家庭の消費生活であり、端的にいうと、“利口に金を使う術”を会得するためのものである。
 このあと消費者数学(consumer's mathematics)なんていう言葉も出されています。

 そして、「直接、役に立つ」ということについては、次のような面白い比喩で語っています。

家を建てる大工には何が必要であるかというと、だれでも、ノコギリ・ノミ・カンナ・・・・・・などをあげるだろう。これらは家を建てる仕事には直接、必要なもので、だれにも異論はない。しかし、必要なのはこれだけであろうか。ノコギリの目立てをするヤスリとか、カンナをとぐ砥石はどうだろうか。これらも必要ではあるが、直接的ではなく間接的である。しかし、これらがなくて困ることに変わりはない。だから、ノコギリ的な実用性にだけ注意して、ヤスリ的な実用性を見落としてしまう生活単元を、近視的な実用主義といってもいい過ぎではなかろう。

 ここまでは、「なるほど〜」と思いながら読みました。しかし、途中を省略して次の部分になると、「ん?」と立ちどまってしまいます。
要するに、教材のあらゆる断片が直接、生活に役立つ必要はないのであって、中学三年までの数学が一本の体系となり、その体系が有機的に活動して生活を向上させることに役立てばよいのである。
 この発想は、系統学習につながっていくものなのでしょうね。

 さらに先を読むと、「生活単元がいくつかの進歩を教育の中にもたらせたことは否定できない」として、“動機づけ”(motivation)のことをあげています。そして、はたして正しい方法でそれがなされているかどうか?と疑問が示されたのち、「興味」の話へと移っていきます。
興味はけっして“生活的興味”に限られるものではない。その他に“知的興味”というべきものがあるはずである。ここで“知的”というのはなにも高遠なことをいうのではない。指導のいかんによっては、二つの数を掛け合わせると、順序を変えても答えは変わらないという単純な事実でも、また、どんな小さい円でも大きな円でも、円周と直径の比は一定であることも、十分、知的興味の対象となり得るだろう。また、一つの学科がどのように発展したかという歴史的なことがらも利用できるだろう。

(まさかこんなところでかけ算の交換法則の例が出てこようとは・・・^^;)

 私も、家庭教師をしていたときに、子どもの興味って、意外なところに生じるんだなぁ〜、意外な方向に進むものなんだなぁ〜と思ったことが何度かあります。だれにとって意外かというと、私にとって。仕事で扱う算数・数学に対してすっかり慣れっこになり、新鮮さを失い、固定観念にとらわれ、退屈ささえ感じる私にとって・・・

 で、遠山啓は、こうも言っています。

・・・、生活的興味が自然発生的であるのに比して、知的興味はより間接的で教師の積極的な指導を必要とすることが多い。その際、最小限必要なことは教師自身が興味を持つことである。
 しかし、“興味”とか“学習意欲”とかの問題を教育の領域だけで論じても十分ではない。なぜなら、学校をとり巻いている社会の性格が、ここでは決定的な役割を演ずるからである。(中略)“動機づけ”とか“興味”とかいうことが大声で叫ばれるような社会は、“勉強し甲斐のない”社会だということができるかもしれない。
遠山啓 | permalink
  

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