TETRA'S MATH

数学と数学教育
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自己批判

 私はこのブログで時々、遠山啓や数教協を批判するようなことを書いているかもしれませんが、根底にはいつも、深い感謝と応援の気持ちを抱いています。何しろ、自称「数教協の落とし子」。時代的にも家庭環境的にも、遠山啓および数教協の恩恵を一身にあびて育ってきた人間だと自覚して久しいです。だからこそ、私の中に相対化されないまま入り込んできている考えを、あらためて取り出し、問い直し、そして受けとめなおす作業をしなければいけないのだろうと思っています。

 そしてもうひとつ思うことは、遠山啓が本当にやりたかったことの核の部分、遠山啓があの時代の数学者として教育者として、私たちにどんなメッセージを送ろうとしてくれていたのか、それを知りたい、ということがあります。もしかするとその核の部分は、現・数教協の先生たちも気づいていないかもしれない。それを知って、抽出して、自分の言葉で表現したい。というのが、私のライフワークの1つです。

 で。

 最近よく話題に出す、堤清二著『消費社会批判』ですが。著者に対して、「おまえがそれを書くか?」と思う人も多いだろうと思います。ということについては本人もあとがきで触れており、「体験をふまえた産業社会批判の書であると同時に、その中で経営者として行動してきた自らへの自己批判の書でもある」と書いています。
 このように書くと「今更そう言われてもなぁ」と思う読者もいるかもしれない。あるいは強い叱責の声もでるかもしれないと思う。

 でも、逆に言えば、堤清二ほどこの本を書くのに適した人がほかにいないのかもしれません。

 私は堤清二が特に好きでも嫌いでもないのですが、そんなつもりはなくてもどうしたってセゾン文化の影響は受けているだろうし、とにもかくにも最近しみじみ思うことは、1979年の段階で無印良品を作ったってのはあらためて考えるとすごいな・・・ということなので、ちょっと興味をもったのでした。あとがきにはこんなことも書いてあります。
・・・、そのことと平行して、あるいはそれにもまして私は今なお現場にあって日夜苦労しているビジネスマンとその指導者にこの書がどう受け取られるかが大変気がかりである。私はビジネス社会とその中で働いている人たちに深い共感を持っていると自分では思うが、この本の叙述の方法と姿勢がその気持をうまく伝えていないとすれば、それは私の表現方法とそれを支えるべき思想の浅さゆえである。

 なお、自己批判、自己批評の話については、鷲田清一『死なないでいる理由』にもちょっと出てきていました。>収縮する「わたし」
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