TETRA'S MATH

数学と数学教育
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マージナル/意外なところで「境い目」に出会う

 年末にAmazonで堤清二『消費社会批判』の中古を注文したら、すぐに届きました。で、ざーっとページをめくってみたところです。まだ読んではいないので面白いかどうかはわからないけれど、いろいろなジャンルの人名や概念が出てくることに、ちょっと驚いています。でも、たとえばヴィトゲンシュタインやサイバネティックスが出てきても、不思議でないといえば不思議でないのかもしれません。

 この本を読もうと思ったのは、堤清二・三浦展著『無印ニッポン』の中でマージナル産業という言葉を知ったことがきっかけでした。マージナル産業とは何かというと、『無印ニッポン』においては、「一番端っこにあって、商品の性格が変わる場所にある産業」という説明がなされています。マルクス『資本論』第一巻第一章と関わる話であるらしく、「無印良品は、どんな人に支持してもらい、広がっていってほしいと思いますか。」という三浦展の質問に対する堤清二の答えの中で出てきます。
 
(堤清二の発言より)
どんな人でも、ものを購入して消費するときは、一人の確たる人間です。言い換えれば、どんな人間にも主権感覚はあるんだ、と。さて、流通産業はどういう認識のもとに成立するのか。資本主義生産様式で作られたものが消費者に手渡されるときに、その商品は個人の生産過程に入る。


 この点についてマルクスは、本来個人的生活過程であった商品が、資本主義になってからは、単なる労働力の再生産過程でしかなくなったということを言っているらしいのです。堤清二はこれを、「商品は労働力一般になってしまって、個性がなくなった」と読み、だから消費過程そのものに個性を復活させることが必要だ、と考えます。

 マルクスの言葉については『消費社会批判』でもっとわかりやすい説明がなされています。労働者が賃金を受け取り、それでパンやバターを買うのは、労働力を再生産する必要から行われる行為であって、それ以外ではない、とマルクスは分析したのだと。

 そして堤清二は、一番端っこの、商品の性格が変わるマージナルな場所で、消費者が自分を回復しやすい、個性の過程に入りやすいものを考えて提供するのは、流通業者として立派な役割ではないか・・・と主張するわけです。でも『無印ニッポン』の中で(つまり2009年の段階で)本人いわく、この考え方は広まっていないというか、ほとんど無視されている、と。理論の展開に独断的なところがあるのだろうと“(笑)”つきで自己分析しているようです。

 さて、『消費社会批判』の中でマージナル産業に触れられている部分はそんなに多くありませんが、まずはp21において、「資本の論理」と「人間の論理」の境界に位置する流通産業として出てきます。

 ここを読んだときに、少し可笑しいような、なるほどねぇ・・・というような、なんともいえない気分になりました。ついこのあいだまで、「神の論理」と「人間の論理」の違いに思いをはせていたのに、まさかこんな形で「資本の論理」と「人間の論理」の、しかも境界()に出会おうとは。

 ちなみに、『無印ニッポン』は2009年発行なので最近の話ですが、『消費社会批判』は1996年発行なので、ひとむかし、ふたむかし前の話です。実際、そんな印象があります。そして『消費社会批判』においては、「流通産業の思想とマージナル産業論の限界」という見出しの一節でマージナル産業の話が出てきています。p22で堤清二いわく、
ここでいう、「人間の論理」とはいったいどんな論理なのか。人間の論理というのは、その結果行動が起こされる動機や要求を科学的に数値化しうる論理なのか。それは合理的で倫理的なものなのか。人間の論理とは本質的に非合理的なもので、科学的考察の対象になり得ないのではないか---という従来からあった立論に、マージナル産業論は充分に答えているとは言い難い。

 さらに続けてこう語ります。
 バブルという現象は、この人間の論理の非合理性の一面を露呈した現象だったように思われる。つまり、バブルという経済の混乱状態も人間の論理から発生している。それを道徳的、倫理的に批判することは必要であるが、経済学として、また経営学としてバブル発生の原因をつきとめ、理論的に裁断しておかなければ、バブルは再び登場するに違いない。
 そして後半p206、207においては、「ネットワーク関係がもたらすもの(二)」という見出しの一節で、今度は「マージナル社会」という言葉が出てくるのでした。
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