TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「1」は数えられる対象を表す記号ではない

 ある部屋に、3匹のこぶたがいます。名前はブー、フー、ウー。ここにいる3匹のこぶたを3匹のこぶたといえるのは、ブーとフーとウーがみんなこぶたであり、しかも、ブーはフーでもウーでもなく、フーはブーでもウーでもなく、ウーはブーでもフーでもないから。

 かごの中に、4つのりんごがあります。ふじ、紅玉、王林、ジョナゴールド。王林だけが黄色でちょっと目立つけど、りんごはりんご。このかごの中からふじと王林を食べました、残りのりんごは何個でしょう?、というときの計算 4−2=2 は、

(ふじ+紅玉+王林+ジョナゴールド)−(ふじ+王林)
               =(紅玉+ジョナゴールド)

ということであるか? それは、

(1+1+1+1)−(1+1)=(1+1) としての 4−2=2

ではなく、

(1'+1''+1'''+1'''')−(1'+1''')=(1''+1'''')

であるか?
  フレーゲいわく、対象集合に属する個体の独自性を捨象したときに残るのは考察されている物の基数概念ではなく、その下に当該の物が属するような一般的概念である、と。
これらの物それ自体は、捨象によってその特殊性を何も失わない。例えば、一匹の白猫と一匹の黒猫を考察する際に、それらを区別する性質を度外視すれば、私は、例えば「猫」という概念を獲得する。私が両者をこの概念の下にもたらし、そして場合によっては単位と呼んだとしても、白猫は相変わらず白いままであるし、黒猫は黒いままである。また、私が色のことは考えない、あるいは、色の相違からはいかなる結論も導かないことにしたとしても、それらの猫は無色にはならず、以前と全く同様に異なったままである。抽象によって獲得された「猫」という概念は、たしかに[それぞれの猫が持つ]特殊性をもはや含んでいないが、しかしそれだからこそ、一個の概念でしかないのである。
 また、W.スタンリー・ジェヴォンズは「数は相違の別名でしかない。厳密な同一性は単一性であり、相違と共に複数性は生じる」というような発言をしているそうです。

 ブーとフーとウーを3匹と呼べるのは、ブーのブーたるところ、フーのフーたるところ、ウーのウーたるところを考えにいれず、「こぶた」という共通の概念だけに注目するからできることのように思えるけれど、3匹のこぶたと言った時点で、それはブーとフーとウーが「異なる存在」であることを示しているというわけか。

 たとえかごの中に入っているのがふじ・紅玉・王林・ジョナゴールドではなく、紅玉・紅玉・紅玉・紅玉だとしても、ここに4個のりんごがあるといえるのは、4個の紅玉が区別可能であるからか。

 そして、4個のりんごがあることを、1+1+1+1=4とは示せない。ここに出てくる1は、すべて異なるものだから。つまり、1は数えられる対象の各々を表示する記号ではない。しかし、それぞれの1を区別して 1'+1''+1'''+1''''と表すとき、そのような1は算術にとっては無用なものとなる・・・

 フレーゲいわく、「単位の相等性と区別可能性を調停するという困難は、「単位」の多義性によって隠される」と。

 ふうむ。
金子洋之『ダメットにたどりつくまで』 | permalink
  

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