TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< ダメットによる、フレーゲのプラトニズムの考察 | main | 木星の衛星の数はいくつ? >>

1と2と3にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 本日、常体にて。

 ダメットにすぐにもどれるような読み方でフレーゲ『算術の基礎』を読みたいのであれば、ダメットを少しでもいいからのぞいたあとのほうがよかったかな……と、フレーゲを読み始めてから思った。『ダメットにたどりつくまで』で直接引用されている『算術の基礎』の場所の前後だけを読んでもよくわからないし、その少し前、そのまた少し前……ともどってみてもよくわからない。結局、最初から読んだほうがよさそうだということになる。でも、そうなると今度はいろいろと連想が広がって、すぐにダメットにはもどれなくなってしまいそう。

 たとえば思い出すのは、ドゥルーズによるベルクソン『記憶と生』の訳者あとがきの次の部分。
 

翻訳に際して、私が何より心がけたことは、本書をそういう一冊として、多数性に満ちた単一として扱うことだった。

 

 多数性に満ちた単一とはなんだろう。訳者の意図を汲めているかどうかはわからないけれど、読者の一人として思うことは、それは、「1本道につながっているという意味での単一ではなく、点のないネット状になっている単一でもなく、各々がばらばらで独立しており、なおかつ、すべてがつながっている」という、そういう「一」であるのだろうと感じた。そもそもがこれは、ドゥルーズという編纂者がベルクソンの複数の本から文章を選び、77個のテクストを並べて作った1冊の本だ。しかもそのなかから私は、1文だけを抜き出すという作業をしてしまった。いや、「しまった」ということもないのだけれど。1文というのは、句点で区切られているということ。1つの文字、1つの語、1つの文、1つの段落、1つのテクスト、1つの章、1冊の本。多数性に満ちた単一であることの前に、この「一」冊の本にはさまざまな「一」が含まれている。

 そうして思い出すのは、かつて自分で書いた、0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考というエントリのこと。結局、私が「わたし」に興味をもつのは、それはつまり「1」に興味があるということであり、それはすなわち「境い目」に興味があるということなのかもしれない、というところまでは自覚していた。しかしこのたびハっとした。もしかすると私は、「1」を存在者として認めており、そうして数として「1」しか認めてはいないのではなかろうか。そもそもが、「何を考えているのかわからなくて、ちょっと身構えてしまう」くらい、まるでひとつの人格として私は「1」を認めている。これほどのイメージを、2や3や48や135や67981に対して私はもっているだろうか?

 となると、2は、1+1として認める?
 (そうとしてしか認めない?)

 3は、2+1=(1+1)+1として認める?
 (そうとしてしか認めない?)

 結局私は、境目である{ }を1と考えているのではなかろうか? もし、0も考えなくてはならないときは、{●}を1とすることになる。でも、2は{●●}にならず、3も{●●●}にならない。境目をもつものを「1」として認める私にとって、境目が1つである以上、それはどこまでも1なのだ。あるいは、2個性をもつ一、3個性をもつ一なのかもしれない。

 また、数教協のタイルのことも思い出す(>「構造と素子」と、十進法理解のためのタイルの結集)。タイルには、中身の見える ―― それはすなわち自分の中の境目を意識するということ ――「びんづめタイル」と、中身の見えない ―― それはすなわち自分の中の境目を意識しないことにより自分と外部との境目を強調するということ---「かんづめタイル」とがある。十進数で示された「111」という数が百十一を示すとき、並んだ3つの「1」は、同じ「1」でありながら、同じ「1」ではない。ということを、「裏返して境目を消す」という作業と、「相対的な量感」でつかませようというのがタイルによる指導だと思う。いったい「1」はなんなのだ。これほどの思考のきっかけを、私は2や3や48や135や67981から与えられたことがない。

 なんだろう、この微かなショックは。素直に認めたくない気分。

哲学・思想・科学論 | permalink
  

サイト内検索