TETRA'S MATH

数学と数学教育
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フレーゲのプラトニズム

 以前、フレーゲもちょっとだけのぞいたことがあるぞ……と思い、過去の記事をたぐってみたりしては削除)。で、久しぶりに野矢茂樹『論理学』を開いてみました。なるほどなるほど、わかりやすい。

 しかし、『ダメットにたどりつくまで』のフレーゲはちょっととっつきにくいです(ちなみにここでとりあげられるフレーゲのプラトニズムは『算術の基礎』に限定されたもの)。

 フレーゲは、抽象的対象としての数が「いかにわれわれに与えられるか」という点に関しては、通常のプラトニズムとは一線を画した独特の見解を示していたそうです。どこかどう独特なのかといえば、

プラトニズムが通常は最初から存在論的な見解であるのに対して、フレーゲのそれは、言語的考察、より正確に言えば、彼の論理学体系に関する意味論的な考察からの帰結だからである。

(p.17)

なんだそうです。

 で、フレーゲの言語的考察を理解するにあたり、「対象と概念を明確に区別せよ」という原則について考えなくてはなりません。そのまえに、まず、フレーゲの文脈原理をおさえておかなくてはなりません。

 文脈原理(慣例でこうよぶらしい)というのは、「語の意味を孤立して問うてはならない、語の意味は文という脈絡において問わなくてはならない」という原則のことであり、ある一つの文の中でその語がどういう役割を果たしているかを見ろ、ということです。役割というのは、その語が、それを含む文の真理値を決定するのにどのような貢献をしているかということで、このあたりが例の「文に対する関数論的視点」へとつながっていくのだと思います。

 文脈原理はともかく、さて、「対象と概念を明確に区別せよ」とはどういうことか?と自分で考えてみた場合、これはきっと、「数という抽象的対象は存在している」という主張にいたるためには「数が対象である」ということが言えなくてはならないということなんだろうな、対象であることがイコール存在なのか、対象であることは存在の前提なのか、そこのところがまだよくわからないけれど……と最初は思っていたのです。

 ところが、金子洋之さんは、フレーゲを紹介するにあたり、

数や概念、値-域(value-range)、さらには(SinnとBedeutungの区別の導入以降は)意義や思想といった、非現実的対象(non-actual object)あるいは抽象的対象と呼ばれるものの存在を一貫して明確に承認している

(p.17)

そうで、のっけから「概念」という言葉が出てきています。そうなると、概念も対象のうちということになってしまわないかい?? これって上記引用部の「概念」と、フレーゲが「対象と概念を明確に区別せよ」というときの「概念」は別物という話なんだろうか、それとも私の理解が間違っているということなんだろうか。

 で、いったんフレーゲをはなれて「ポチは犬である」という文章について対象と概念を考えてみたとき、「ポチ」が対象で「犬である」は概念です、と判断したある人が、それはなぜかときかれて、「ポチ」はポチという対象を指しているし、「犬である」は犬であるという概念を指しているからです、と答えたとすると、この人はすでに「対象」と「概念」を知っているということになります。「対象」と「概念」を知っている人でないと、こういう判断はできない。(ここでいうところの「対象」や「概念」が存在論的カテゴリーなんだと思う。)

 フレーゲはそんなふうには考えませんでした。フレーゲは、対象は何かという問いに対して、「固有名(単称名辞)によって指示されるものだ」という答えを出しました。固有名が何であるかが対象の観念によって特徴づけられるのではなく、対象というカテゴリーが固有名という表現カテゴリーによって特徴づけられるというわけです。あるいは、対象や概念という存在論的カテゴリーは、言語的カテゴリーに随伴する、と。

 なるほど。「存在」につながる話を存在論的カテゴリーから始めるのではなく言語的カテゴリーから始めるのが、フレーゲの特徴なのですね。

 じゃあ、対象や指示といった観念に訴えることなしに、文中のある表現が固有名であるか否かをどうやって判定するのか?

実際のところ、フレーゲ自身はそれについてたいしたことを語っているわけではない。というよりも、そのような判定の可能性をほとんど自明のように考え、せいぜいがいくつかのヒントめいたことを語っているにすぎない。

(p.21)

 えー、そんなのありぃーー!?>フレーゲ

ダメットは、そのわずかに語られたことを手がかりに、与えられた表現が固有名であるかどうかの判別規準を打ち立てるために膨大なページを費やしている。

(p.21)

とのこと。ならばダメットのお仕事をのぞいてみなくては。ところが、なにしろフレーゲもダメットも日本人ではないので、言語的考察の内容を日本語の具体例でダイレクトに感じられずにもどかしいのです。著者の金子さんも、「日本語にうまく対応する表現が見つからないのだが」とか「日本語ではかなり不自然な推論ではあるけれども」といったようなことを書いておられます。

 もどかしいながらも先を読んでいこう。

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