TETRA'S MATH

数学と数学教育
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数や集合や関数は、どんなふうに「存在」するのか

 草原や蛙や太陽は私と独立に存在していると考えられても、数や集合や関数は私の思考や認識とは独立に存在していると考えられないとしたら、その違いはいったいなんなのだろう?と(自分がそういう立場にたったつもりで)自問してみると、草原は眺められるし蛙はゲコゲコ鳴いているし太陽はまぶしいから存在していると思える、というのがすぐに思いつく答えです。つまり知覚できるかどうか、感覚でとらえられるかどうか。でも、私がそこにいなければ草原は眺められないし蛙の声も聞こえないし太陽のまぶしさも感じない。それなのになぜ、私がそこにいようがいまいが存在すると思えるのか?とさらに自問してみると、知覚できるということは私の外にあるのだから私とは無関係に独立に存在するのだ、という答えがとりあえず出てきます。

 そんな私の答えは答えとして、数学におけるプラトニストたちが、数や集合や関数、構造といったものが(われわれの思考や認識とは独立に)「存在する」と主張するとき、ここで言う「存在する」はどのような意味での「存在」なのか知りたいのです。

 ダメットは、数学におけるプラトニズムがいかに説得力をもちうるかを、物理学な世界における観察とのアナロジーから始めるのがよい、と主張しているんだそうです。なお、最初に書いておくと、ダメットはプラトニストではありません。何しろ反実在論の立場を主張している人なので。そんなダメットがプラトニストであるフレーゲを研究しまくって高く評価しているのはなぜかというと、やっつける相手を出来る限り上等に仕上げたうえで葬りさらないといけないからのようです(こわっ)。でもここはまだ、フレーゲのプラトニズムではなく一般的なプラトニズムの話です。
 
 ダメットは、数学の諸理論が一群の真理を構成するという仮定のもと、こんなようなことを考えたらしいです。数学的真理から何らかの非数学的原理や前数学的原理へとそれ以上遡ることができないとすれば(公理を考えるとわかりやすい)、それらの真理を知るわれわれの能力を、物理的な世界を把握する感覚的な能力になぞらえること以上に自然なことはあるだろうか?と。

 しかし、こうしたアナロジーを認めたからといって、「数学的な存在者に対するわれわれの信念の正当化は、物理学の理論的な存在者に対するわれわれの信念の正当化と同じだ」というゲーデルのアナロジーまでもが成立するわけではない、と話は続きます。なぜなら、物理学と数学とでは、存在者の正当化によって求められているものが根本的に違うから。何が違うかというと、説明能力をもつか否か。たとえば、電子や電磁波が存在するという仮定を拒否すれば、説明されない現象が残されてしまうけれど、古典的連続体や到達不可能順序数にこれと同様の説明能力があるわけではないし、それらの存在を撤回したときに説明不能のまま残される現象があるわけでもない、というわけです。おお、なるほど。

 ダメットは、プラトニズムに対する不信の念が多くはこのゲーデルのアナロジーに由来すると考えているらしいとのこと。しかし、ゲーデルのアナロジーが成立しないからといって、はじめに示したダメットのアナロジーまでもが成り立たなくなるというわけではない、か。ふむふむ。

 ほんでもってこのあとは、ヒルベルトの形式主義とプラトニズムを対比させることによって、プラトニズムの魅力的な側面を引き出すというダメットの議論が示されていくのですが、ここは“保留”の私です。そんなに難しい話ではないと思うのだけれど、悲しいかな数学的経験があまりにも乏しすぎて、実感をもって「なるほど〜〜」と納得できなかったのです。

 一応、ざっと書いておくと、形式主義は、形式体系(数学の公理系)に対して通常の古典的な解釈(モデル)を受け入れるけれども、唯一の意図された解釈・モデルというものは認めず、理論のどの解釈やモデルも同等だとする。しかし、ダメットは、様々な数学理論の中で数論と解析学と集合論だけは特別だと主張し、なぜ特別あるいは基礎的であるかといえば、これらの理論がドメイン(各理論がその中で展開される場)形成の役割 ―― 数論は可付番ドメイン、解析学は非可算ドメイン、集合論はさらに高階の無限に関して同様の役割 ―― を果たしているからだとしています。つまり、これらの理論は他の数学理論の土台を与えており、このような数学を貫いて応用される総体、あるいは総体を得るための手続きの存在をモデル相対的な形式主義は保証できない、という話です。そうかもしれないとも思うんだけど、うーん、と
りあえず保留。

 以上は、プラトニズムの一般的な立場とそれについてのダメットの理解(のおおまかな見取図)ですが、さてフレーゲのプラトニズムはというと、上記ような一般的なプラトニズムとは随分と違っているようなのです。

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