TETRA'S MATH

数学と数学教育
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私のなかの実在論と反実在論のねじれ

 金子洋之『ダメットにたどりつくまで』を第二章から読み始めていましたが、ここでいったん、序章、第一章にもどりたいと思います。

 序章は、フレーゲの次の言葉から始まります。

「草原、草原にいる蛙、それらを照らす太陽は、私がそれらを眺めていようといまいと、同じようにそこにある。」

(p.1)

 もしこのような発言によって実在論(少なくとも外的世界についての実在論)が要約され、反実在論が実在論を否定する立場だとすれば、反実在論はこの発言を否定するような立場だということになります。しかし、反実在論がそのように捉えられるとき、それはせいぜい旧来の観念論か、もしくは懐疑論の一種だということになりはしないか……と話は始まるのでした。

 ダメットは、すでに書いたように、「観念論に陥るのでもなければ懐疑論に陥るのでもない反実在論の立場がある」ということを長年にわたって主張してきた人で、さらに、いくつかのケースでは実在論よりも反実在論の方がより整合的な立場であり、われわれはそちらを採用すべきだ、とさえ論じてきたそうです。観念論や懐疑論ではない以上、この立場においては、蛙や草原の存在が否定されたり、疑われたりするわけではないし、われわれが見ていないときには、それらが存在しなくなると主張されるわけでもない。また、反実在論の立場に立つことによって、われわれのこれまでの実践や世界の見方が完全に覆されるというのでもない。

 おお。そんな反実在論の立場があるのであれば、是非きいてみたいです。

 この本を手にする前に私がぼんやりと考えていたことは、果たして自分は、実在論者と反実在論者のどちらに近いのだろう?ということでした。特に、算数・数学教育について考えるときの立場として。ということを考えるときに、実在論とは何か、実在とは何かについて、なかなか整理できないねじれのようなものが自分の中にあることを感じます。

 たとえばプラトニズムという言葉。プラトニズムは、数や集合や関数、あるいは「正義」といった抽象的な概念や、「阪神タイガース」のような名前で表わされるチームや組織のようなもの、そういった具体的な事物とは異なるものを独立の存在者として認めるような立場だそうですが、草原や蛙や太陽の存在と、数や集合や関数の存在との間には、すでにここで大きな隔たりがあるように感じられるのです。草原や蛙や太陽は私と独立に存在しているけれど、数や集合や関数は私と独立には存在していないとする、そういう立場だってありそうなもの。

 ウィキペディアで「実在論」をひくと、「対応するものが概念や観念の場合は観念実在論になり、物質や外界や客観の場合は、素朴実在論や科学的実在論になる。」と書かれていますが、実在論に観念の文字がくっつくと、ややこしいことこの上ありません。

 ちなみに『ダメットにたどりつくまで』の巻末で、実在論に対立する立場が観念論ではなく、「反実在論」となっている理由についての注釈がついています。「観念論は反実在論の一種だが、反実在論イコール観念論というわけではないと考えておこう」とも書いてあります。一方、ウィキペディアで「観念論」をみてみると、対比する思想として「唯物論」があげられており、「唯物論」の対語は「唯心論」になっていて、そんなふうに調べていくと対比する相手がどんどんずれていくのでした。そういえば「唯名論」はどうなるんだと思えば、こちらは科学的実在論と対比するものになっています(ウィキペディア)。

 で、もやもやした気持ちのままに、もう一度、自分は実在論者に近いのか、反実在論者に近いのかと考えてみた場合、どちらかというといまのところは反実在論者に近そうだという答えが出ました。でもそれはたぶん、実在論を「ある種の客観主義」のようなものと捉えて拒否反応を起こしているくらいの話だと思います。また、「俯瞰する数学教育に対する違和感」ともつながっているかもしれません。がしかし、そんな私が「実在」から始める遠山啓の量の理論に共感している(夢と希望、勇気、明るさのようなものを感じる)ってそれってどういうことよ?と思うわけです。無限は実在するというときの「実在」と、遠山啓が実在から始めるというときの「実在」は、どう違うのか?(単純に考えると前者は動詞で後者は名詞だけど)

 こういう話になると、きっとメタメタさんが何か書いておられるだろう(というかその記憶がある)のでさがしてみたら見つかったので、リンクさせていただきます。>自然数は発見されたのか発明されたのか

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