TETRA'S MATH

数学と数学教育
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ブラウワーがいうところの数学の無言語性

 さて、ブラウワーの思想をもう少しのぞいてみます。ブワウワーは「数学はメンタルな行為で、主体とわかちがたく結びついており、本質的に言語とは関係ない」と主張したようなのですが、だとしたら、「じゃあ、どうやって他人と共有するのよ?」という素朴な疑問がわいてきます。ちなみにブラウワーは、「厳密に言って、直観的数学の構成それ自体は、行為であって、科学ではない」とまで言っているそうですし、言語によるコミュニケーションの可能性を完全に否定しているように見える主張もしているようです(ただし、金子洋之さんは、ブラウワーは言語的コミュニケーションを完全に否定しているのではなく、言語について2つの根本的に異なる捉え方をもっており、その一方におけるコミュニケーション可能性を否定しているだけなのではないか、という仮説を立てられているようです)。

 しかし、ブラウワーの言い分を詳しくきいていくと、なるほどと思える部分も確かにあります。

 言語というのは社会的な道具であり、つねに一般化・普遍化の方向に向かって作用する。その作用は、体験のコンテントをその体験へ至る個人的背景やプロセスから切り離すことによって初めて成立するような作用にほかならない。個人的な背景やプロセスを引きはがすことなしには、内容の「共有」はあり得ない。

 つまりブラウワーは、内的体験を言語化することによって元の体験がもっていたはずの個人的な特質が失われてしまうことを、極度に懸念していたらしいのです。

 なぜ、そんなに懸念していたのか。

 ブラウワーは、数学をあくまでも行為のシステムとしてとらえようとしていた。もし、構成されたものと構成のプロセスとの分離を認めてしまうならば、プロセス抜きの構成結果や内容がそれ自体として操作可能な対象となる。直観主義数学は、概念的操作や言語的操作のシステムではない。

 なるほど、この段階で、ブラウワーがプラトニズム(実在論)を拒否していることがよくわかります。

 こう解説してもらうとよくわかるのですが、でもブラウワーったら、こんなすごいこと言ってるらしいんですよ。↓

直観主義の第一の活動は、数学を、数学的言語から、特に理論的論理学によって記述される言語現象から切り離し、直観主義数学が、時間の動きの知覚にその起源をもつような、心の本質的に無言語的な活動であることを認識する。すなわち、[ここでいう時間の動きの知覚とは、] 生の瞬間を、二つの異なるものへと切り離すことである。その際、二つの異なるものの一方は他方によって退けられるが、なお記憶によって保持されている。こうして生まれる二−一性(the two-ity,the two-oneness)が、あらゆる質を剥奪されるならば、あらゆる二−一性の共通な基体の空虚な形式が残される。この共通の基体、この空虚な形式こそが、数学の基本直観にほかならない。

 (p.44/引用部分)

 この引用部分の直後に金子洋之さんが

 突然このようなことを言われても、という感がないわけではないが、

と説明を続けておられていて、「くすっ」となると同時にほっとしました。

 ちなみに、ブラウワーの直観主義の「直観」はどこからきているかというと、カントです。数学は行為だとはいってもメンタルな行為なのだから、行為の可能性を保証するものとしての空間は必要ない、必要なのは時間だけだと考えて、そのための保証をカントの時間の直観に求めたというわけです。なるほど、心的構成プロセスには時間が必要だろうて。

 なお、ブラウワーが数学の無言語性を強調する背景、そのもうひとつの可能性について、巻末の「注」で金子洋之さんの補足説明があり、ここも面白かったです。(第二章(8))

 ブラウワーが体験のもつ個人的背景やプロセスが失われることを極度に警戒していたということは、そうした背景やプロセスに何らかの意義を認めていたということになります。その意義とは何なのか?

それを明確な認知的タームで語るのは難しいが、一つの可能な解釈は、その意義が体験内容のおかれるべき文脈ないしパースペクティヴの保存にある、というものである。われわれは、ある一定の前提から推論を開始し、ある定理に到達したところで、その推論を終える。論理的推論はそうしたプロセスを完全に平板化してしまい、なぜ当の前提から始め、当の定理で終了しなければならないかについては何も答えてはくれない。しかし実際にその定理を証明しようとする数学者は、その前提と定理との間に、論理的推論連鎖とは異なる何らかのつながりを見ているのでなければならないはずである。
(p.227)

 そういった、数学的文脈、数学的パースペクティヴの保存をブラウワーは重視していたのであり、言語がそうした文脈性には顧慮することなく体験の内容そのものを文脈から独立させてしまうことに対する警戒だったと見ることもできる、と金子さんは書いておられます。

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