TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 数学はメンタルな「行為」だと主張した人/ブラウワー | main | ブラウワーがいうところの数学の無言語性 >>

ブラウワー/ハイティンク/ダメットの関係

 金子洋之『ダメットにたどりつくまで』をなし崩し的に2章から読む形になっていますが、そのままいきまーす。

 さて、直観主義論理の公理を整えたのがハイティングだったことについては、以前ちょっとだけ勉強しました>。なお、『ダメットにたどりつくまで』では「ハイティンク」というふうにクは濁点なしになっているようなので、これ以降はハイティンクでいこうと思います(でもp56で濁点ついてるの見つけちゃった)。

 以前、直観主義論理をのぞいたときに、私は
構成主義的見方としての直観主義論理を考えると、なんかそれっておかしくない?と言いたくなるときがあるけれど、直観主義論理の公理系をもとに「そういう世界なのだ」と考えれば、それはそれで全然オッケーだという気がしてきます。
と書いています。つまりこの時点では、私は直観主義に対して「なんかそれっておかしくない?」と思っていたらしいのです。

 ところが、今回『ダメットにたどりつくまで』を読み始めてまもないころに感じたことは、「ひょっとしてひょっとしてひょっとしたら、私はブラウワーの数学を(ものすごーく浅いレベルで)地でいってる? いこうとしてる?」ということでした。そう思うことがおこがましいことなのか恥ずかしいことなのか、喜ばしいことなのか不安に思うべきことなのか、それさえ判断がつかないままに。

 ブワウワーは、「思想は、わかちがたく主体に結びつけられている」と主張したり、「数学的構成の内省的性格」という表現を使ったりしているようなのですが、金子洋之さんいわく、ブワウワーいうところの“体験のとらえがたい質”“体験の内省的性格”とは、おそらく、そうした体験へと至る個人的な背景やプロセスのことだと考えられる、とのこと。うーむ、他人事に思えない。
 
 そして、「公理系をもとにそういう世界だと考えればそれはそれで全然オッケー」と私が思ったのも、ハイティンクが時間をかけて直観主義を近づきやすい形に整えたからこそなのだということがわかってきました。現在では、多くの人が、必ずしもブラウワーには賛成せずに、直観主義を数学の一分野として(古典的な論理や数学とは異なる形式的な体系として)研究対象としているそうです。

 では、ダメットはどういう立場に立っていたのか。

 いきなり2章から読み始めているので、ダメットという人が何を考えている人なのかすっとばした形になってしまいましたので、一応ひとことで紹介しておくと、「観念論に陥るのでもなければ懐疑論に陥るのでもない反実在論の立場がありうるということを長年にわたって主張してきた人」らしいのです(序論より)。おお、なんて面白そうな話なんだ。なお、ダメットの反実在論は数学の哲学のみに関わるような立場ではなく、言語活動全般を対象としたものなんだそうです。そんなダメットを理解するには、フレーゲと直観主義をおさえるのがミソらしいのですが、1章のフレーゲはあとでのぞくことにして、まずは直観主義から始めています。

 で、ダメットはどういう立場に立っていたのか。

 ブラウワーの思想は観念論的すぎてそのままでは受け入れられない。一方、ハイティンクは直観主義を形式化して理解しやすい形に整えた反面、ブワウワーの直観主義がもっていた、数学や論理の改訂という方向をしりぞかせてしまった。だから、ダメットは、主観的観念論に陥らないという意味ではハイティンクに近く、数学や論理の改訂の方向をもっているという意味ではブラウワーに近い立場にたっていた。つまり、古典的な論理学や数学を批判し、それに取って代わる新たな論理学や数学の構成を目指すという直観主義の基本的な方向性は維持しながら、それを支える哲学を根本的に構築し直すという作業に従事しなければならなかった、というわけらしいのです。ほう。
哲学・思想・科学論 | permalink
  

サイト内検索