TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< ブラウワーがいうところの数学の無言語性 | main | 私のなかの実在論と反実在論のねじれ >>

「構成主義」という言葉の多義性

 そもそも『ダメットにたどりつくまで---反実在論とは何か---』(金子洋之著/勁草書房/2006)を手にすることになったきっかけはなんだったのか記憶をたどってみると、たしか算数・数学教育に関わるあるwebページで、「構成主義」という言葉を目にしたことだったと思います(学習理論としての構成主義ではなく、数学的な構成主義)。そこで使われている構成主義という言葉は、これまで私が認識していた構成主義とはかなり違った使われ方をしていました(公理主義のような意味合いで使われている印象があった)。

 で、私は(数学的)構成主義を勘違いしていたのだろうか?という不安にかられ、まずは構成主義で少し検索をかけ、やがて「直観主義」にからめて検索をかけていきました。というのも、私の中では(数学的)構成主義は直観主義と関わりが深いものだという認識があったからです。

 検索をかけ始めたころの私は、「もっとも一般的な構成主義という言葉の意味」を知りたいと思っていたわけですが、直観主義をからめて検索をするうちに、この機会に構成主義や直観主義のことをもう少し知りたい、と思うようになっていきました。そして、『ダメットにたどりつくまで』にたどりつき、「これだ!」と思って注文するにいたったのでした。なお、ダメットという人名は郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体−デジャブ・因果論・量子論』で見かけていました。郡司さんはダメットの論文でマクタガートの議論に初めて触れたそうです。

 さらに、「構成主義」という言葉の意味は、たとえ“数学的”構成主義に限ったとしても、思った以上に文脈に(誰に対して使われているかに)依存するのだと、当の『ダメットにたどりつくまで』を読んで知りました。

 先に書いたように、ブラウワーはびっくりするような発言をしましたが、必ずしも奇矯なものとしてのみ受け取られていたわけではなく、ブラウワーに到るまでに、数学を構成主義的な観点から捉えようとする人々はいたとして、巻末の「注」に具体的な名前があげられています。クロネッカー、ポアンカレ、ボレル、ルベーグなど。
ただし、これらの人々が古典数学の何を非構成的と見ていたかについては相当な違いがあり、一括して構成主義と呼ぶことは、そうした違いを曖昧にしてしまうおそれがある。
 なるほど。

 そういえば、遠山啓『数学は変貌する』をほんのちょろっとだけのぞいたとき、古代・中世・近代・現代という時代に分けて数学を考えた場合、現代の数学は構成的だ(ここではそれを構成的とよぼう)みたいなことが書かれてあったような気がします。
金子洋之『ダメットにたどりつくまで』 | permalink
  

サイト内検索