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数学と数学教育
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現在に帰属しない過去

 2つの過去の共立で書いたように、「窓の外の人」体験をしたとき、まずここに[現在]のタグがつきます。これは、「現実の身体あるわたし」です。そうして、「世界を境界づけるわたし」としての過去と、「世界の住人であるわたし」としての過去が激しく衝突するわけですが、この2つの過去が[現在]という目印の取り合いを始めた刹那に、もう一つ別のタグ、「世界=わたし」というタグがたまたま作られ、このタグによって「超越者としてのわたし」であった過去がかき消されることなく温存された、というわけです。
二つのタグによって、二つの過去の共立が保存されたわけだ

  

 なぜそこでタグが立つんだ?という疑問はありますが、きのう書いたように郡司さんの場合(そしてこのケースの場合)、たまたまそれが作られたということなのでしょう。逆にいえば、しょっちゅうそういうタグが立つと困るわけで。

 さて、2つのタグがついたことで、2つの過去の共立が保存されますが、

  

 私たちは1つの現在によって紡がれていく時間を生きる者なので、複数の現在を知覚することはありません。ということは、2つのタグのうち1つが現在だということになり、もう1つのタグは、現在ではない何かに帰属する過去ということになります。郡司さんはこの過去を「行き場のない過去」と呼んでおり、この行き場のない過去に帰属した過去完了という感覚がデジャブではなかろうか、と結論づけておられます。

 そんなことよく思いついたなぁ〜!という感想と、うーん、それはちょっと無理があるかな…という感想の両方がありますが、それはそうとしてもこれが「木」と「森」にどうかかわっているかが知りたい。

 まず1つは、超越者であろうとする過去は、世界を対象化するという意味で「木」として体験される過去であり、世界の住人としてのわたしを体験する過去は、わたしを取り巻く不定で大きさのわからない世界を体験するという意味で「森」を体験することなので、2つの過去は、木と森の強い対比および補完関係を成し、共立しやすい性格を有していた、ということがあげられています。なるほどそれは確かに。

 でも面白いのはもう1つの「木」と「森」の話、出来事(木)と、出来事の系列・集合(森)との関係です。
郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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