TETRA'S MATH

数学と数学教育
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ウイスキーが半分入っている瓶と「わたし」の関係

 郡司さんは、「もう半分」の場合も「まだ半分」の場合も、残ったウイスキーを「木」、ウイスキーが飲まれてできた瓶の中の空間を「森」として話を始めておられますが、私は、「もう半分」の場合は空間が「木」だと考えたほうがしっくりくるように感じていました。half empty と half full になると、ますますそう思えてきます。空間もウイスキーも、ともに同じレベルで「木」になれる、と。

 なお、ここで「木」と「森」のなんたるかを確認しておくと、「木」は輪郭をもつ明示的な対象、「森」は不定性、曖昧さをもつ背景の全体です(と私は理解しています)。

 空間もウイスキーも同じレベルで「木」だという私の感覚(そうでないと「半分」という言葉が生きてこない)はあとで回収されていくのですが、いずれにしろ、瓶の中に半分だけ残ったウイスキーを見て「もう半分!?」とわたしが言うとき、まずは残ったウイスキーのほうを見ている、といえばたぶんそうなのだろうと思います。とりあえず、一等最初はウイスキーが「木」であり、空間が「森」と考えることに異論は挟まないことにします。問題は、そのあと「もう半分」と「まだ半分」で何が変わってくるか、ということであり。
 さて、「もう半分」にしろ「まだ半分」にしろ、半分だけウイスキーを残した瓶がわたしにどのような機能を及ぼすかというところに出てきた言葉です。

 そう考えると、ウイスキーが「木」、瓶の中の空間が「森」という対立のほか、瓶全体が「木」、瓶がわたしという環境に与える機能が「森」というもうひとつの対立も考えられます(なお、このエントリで示す図は、p35の図2−3を参考にして私が自分の考えて勝手にかきおこしたものであり、本に掲載されているものではありません)。

     

 そして、「もう半分」の場合、瓶の中にできた空間(すでに飲んでしまった部分)に目がいきます。そんなふうに何もない空間が個物として意識できるのは、その空間がガラス瓶で囲われているから。

 そうすると、「瓶内の空間」という森が、「半分だけウイスキーの残った瓶」という木に転倒します。これは、瓶の全体というものが個物化され、瓶の全体の外部を否定的に示すことでもある、というわけです。



だから、瓶の全体への個物化は、瓶の全体がわたしに及ぼす機能やその不定性を退け、輪郭をもった具体的個物として、瓶とわたしとの関係を結晶化させる(図2−3上の矢印の系列)。すなわち、もはや変えることのできない過ぎ去った過去として、瓶とわたしの関係が成立する。こうして「もう半分」は、瓶内の森から、亀裂を有する瓶とその外部の関係の全体を、むしろ木(半分だけウィスキーの残った瓶)とみることによって、完了・過去を生成している。

 一方、「まだ半分」の場合は、残っているウイスキーに視点があり、ウイスキーは琥珀色の塊としてそのもの自体で具体的な輪郭をもっているので、空間のようにガラス瓶による境界づけを必要としません。そして、瓶の全体という木が無効にされて、瓶の外部という森への転倒が生じる、というわけです。



逆説的に、半分ウィスキーの残った瓶の、その開かれた外部=森として、亀裂のある木と森の対立図式をみることになる。わたしは、「まだ半分」によって、森を志向し、これから行為する未来を生成することになる。

 なるほど。

 私は、「まだ・もう」を自分なりに考えるために、全体(ウイスキーでいうところの瓶)がはっきりしない例を使いたかったので、「入学試験までまだ1ヶ月ある」「入学試験までもう1ヶ月しかない」という場合についてあれこれ思いをめぐらせていました。しかし、この場合は1ヶ月というのがそのまま時間的な幅になっており、過去・完了&未来の生成を考える例としてはあまり面白くないというか、かえってわかりにくい設定のようです。
 
 ウイスキーの話で面白いなぁと思うのは、不定性、曖昧さをもつ「森」への志向が未来を生成するという発想です。私はこれまで、瓶に半分だけ残ったウイスキーに対して「まだ半分」という印象を持つ人は、そのウイスキーの内部に広がる可能性---そのウイスキーがわたしにもたらす豊かな時間---を感じているのだと思っていました。しかし考えてみれば、その可能性がわたしに意味をなすのは、ウイスキーが外部のわたしになんらかの働きかけをしてくれるからであり、ウイスキーからわたしへの機能は輪郭のない森なのだ、という発想が新鮮だったのです。わたしはウイスキーに視点を落とすことで、“逆説的に”半分ウイスキーの残った瓶の開かれた外部=森を志向する。その森とは、いわば空間的なものであり、そういう空間的な森への志向が未来を生成するという考え方。

 給料の2割・8割()の例のような「見方の変更」は、悲観的な判断から楽観的な判断への変更が可能だという、心理学でいえばリフレーミングということになるようです。ちなみに、青年は、「給料の2割を貯金するように」と言われたとき、「無理だ」と行動を完了させました。しかし、「8割で暮らしてごらん」と言われたときは、「やってみる」というように、行動を未来へ向けています。この場合、森に追いやられたのは、2割という具体的な金額だけでなく、「貯金する」という行為も含めての転倒だったのだろうと私は思います。

 もし、瓶に半分残っているのがウイスキーではなく、全部飲むことを義務づけられた苦い薬の場合どうなるか…

 と連想はつきません。

 きのうも書いたように、郡司さんは、あるレベルで意識的に見方を変えること(リフレーミングのように)は可能だけれど、木と見るか森と見るかはそうたやすく分離して扱えるものではなく、本質的な両義性が私たちのより原理的なレベルに食い込んでいて、その木と森の区別と混同の反復が時間を創り出し、時計を進めるということなのではないか、と語っています。

 まだ直結はしていませんが、区別と混同の反復は、前章の膨張と収縮の話を思い起こさせます。

 しかし、「もう半分・まだ半分」の例は素朴なもので、印象・解釈にすぎない。この延長上に何かあるか? 何があるか?

 ということで、次を読んでいきます。
郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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