TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「現在」の膨張・収縮

 さて、話をもどして、郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』の先を読みます。

 子守組合や物々交換の例で、時間・空間的に膨張し、収縮する「わたし」をみてきました。それはいわば、「いま・ここ」の膨張、収縮、「現在」の膨張・収縮です。

 ということの説明が、p21の図1−1で図示されています。たぶんこういうことだろうという私なりの解釈で、あえて日付を加えてカレンダー仕立てにして考えてみました。



 本に載っている図は、左から右に進む矢印3本と点、過去・現在・未来の文字、膨張と収縮を示す矢印と楕円だけで構成されています。
経済活動におけるこの約定・決済の連鎖こそ、実は時間をつくり出すものではないか。その時間とは、(客観的)未来を(主観的)現在の膨張によって現在化し、その収縮によって過去を生み出す連鎖である(図1−1)。
 とりあえずわく疑問が1つ。4/5になったときに、4/4はいまだ現在なのだろうか? クーポン券を使わない限り、クーポン券を欲した時点は引き続き現在なのだろうか… 決済が終わっていないから現在なのかな、やっぱり。

 で、子守クーポンの話はそれなりにわかったのですが、そのあとの次の部分がよくわかりません。

 本書で私は、このような現在に基づく時間論を展開しようと思う。点であり領域でもある現在にうまく辿りつくには、ともすれば曖昧さと受け取られるこの両義性を、回避しながら議論する必要がある。図1−1にも見てとれるように、時間を論じるとき、現在、過去、未来を語りながら、現在の指し示す歴史的出来事を語る必要が生じる。このときすぐさま、現在とは観察者の位置、わたしの位置を示すもので、原理的に一人称でしかあり得ないことが理解されよう。
 そうしてこのあと、

わたしはこの現在に立ち尽くす。わたしには現在しか許されない。にも拘らず、先ほどの現在、五分後の現在といった変化を認めるなら、現在が運動する土台としての三人称的歴史が必要となる。こうして、時間は、一人称と三人称の接続する場所として開設されることになる。
と続きます。

 はやい話、現在が運動するためには土台が必要だよ、ということなのでしょうか。何かが変わるためには変わらない何かが必要ですもんね。

 「わたし」の膨張・収縮が、「いま・ここ」の膨張・収縮であるというのはわかります。時間的に「わたし」が膨張するのならばそれは「いま」が膨張するのであり、空間的・集合的に「わたし」が膨張するのならばそれは「ここ」が膨張するということ。それがつまり、現在の膨張・収縮であるというのもわかります。つまり、「わたし」=「現在」である、と。

 そして、現在がもっている両義性---点でありながら領域でもある---もわかります。

 で、「わたし」はいつも現在なのに、先ほどの現在、5分後の現在といった変化を認めるならば、現在が動くための場のようなものが必要だ、という話なのでしょうか。膨張・収縮はそれだけでひとつの運動ではあると思うのですが、ここでいうところの運動は移動なのかな? でも、移動ならば、次のように、過去から未来に続く土台の上を淡々と進んでいく現在というものも考えられると思うのです。

   

 こうなると、膨張・収縮の話はどうなるんだ?と思うわけで。

 じゃあ、最初の図で、現在をたてにそろえてみるとどうなるだろうか…

   

 おお、この場合、主観的現在が膨張したとき、かつての過去が現在となったり、主観的現在が収縮したとき、かつての現在が未来になってしまったり、ということが起きるのだろうか?

 でも、郡司さんはこういうことが言いたかったわけではなさそうです。とりあえず先を読んでみよう。
郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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