TETRA'S MATH

数学と数学教育
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収縮する「わたし」

 では、膨張する「わたし」に対して、収縮する「わたし」のような現象 ―― 幽体離脱に対する金縛りのようなもの ―― は、経済活動においてもあるのでしょうか。「わたし」が際限なく収縮するというのは、欲望の基盤が収縮することであり、わたしが抽象的な存在となって、具体的欲望を規定できなくなる、欲しい商品の不在によって交換が実現できなくなるということです。

 もしくは逆に、欲望の評価を失うことで、動物的な欲望、歯止めのきかない欲望が暴走するだろう。それは根拠のない、過剰な自信であり、過剰な期待である。金縛りと暴走は、コインの表裏である。

 経済活動における収縮する「わたし」をイメージするなかで私が思い出したのは、糸井重里の「ほしいものが、ほしいわ。」という西武百貨店のコピー(1980年代末)でした。鷲田清一『死なないでいる理由』にこのコピーのことが書いてあるのです(p.234〜235)。

 1980年代の終わりは高度消費社会であり、はてしなくほしいものがあり、なんでもすぐ手に入った。何をほしいと言ってもだれも驚きもしないし、たとえ手に入っても感動も薄くなっていく。わたしがいまほしいのは、これがないと生きてゆけないというぐらいに心底ほしいもの。つまりは、「ほしい」という切実な気持ちがほしい。こういう、「ほしい」という気持ちにみんなの心が渇きだした、飢えはじめたんだというメッセージが、あのコピーだった。

 つまり、消費社会の象徴的存在であった西武百貨店やパルコが、じぶんたちは欲望をあおって多様なものを次から次へとつくるなかで、欲望じたいをしだいに萎えさせてきた、という自己批判をやったようなものであり、欲望のギラギラする社会のなかで、ひとびとは欲望じたいを萎えさせてきた、それが高度消費社会、バブルだったんだという痛切な自己批評の広告だったというわけです。

 しかし、このような考え方は、ややこしい問題を連れてきます。「わたし」の極端な膨張・収縮で「時代」を考えようとすると ――「実際の時代背景」をふまえて「わたし」の極端な膨張・収縮を「現代」の特徴にしてしまうと ―― じゃあ、むかしは「わたし」の膨張・収縮はなかったのか(稀薄だったのか)?という話になってしまうこと。

 また、経済活動を例にとって「わたし」の膨張・収縮を考えるときに、互助組合のクーポン券と物々交換が例に出されていましたが、では「貨幣」というものが登場したら「わたし」の膨張・収縮はどうなるんだ?という問いも出てきてしまいます。

 そうなると、「時代によって時間は変容するのか?」という、とってもややこしい話になってしまいます。

 このややこしさが郡司さんの時間論と関わっていることなのか、実は重要なことなのか、それとも脇においといていいのかどうか、いまは判断がつきません。なので、あまり意識せず、先を読みたいと思います。

郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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