TETRA'S MATH

数学と数学教育
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意味の編集

 まず、きのうのエントリの補足を。「時間」が気になり始めた大きなきっかけのひとつを書いていませんでした。>結城浩『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を物語として読むとき

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 郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』を読んでいると、いろんなことを思い出したり連想したりして、頭のなかにたくさん付箋が立つ。また、昔読んだ別の本をひっぱりだしたり、過去に読んだ本を新たに購入したりもしている。

 それらを、本を読みながら少しずつ整理して形にしていきたいのだけれど、その前に、いまはちょっと問題が大きすぎて扱いきれないであろうことを先に(今後のためのメモとして)書いてしまおうと思う。

 最初は、本の内容と直接関係ない、メタなところに立った付箋だと思っていた。しかし、そうは問屋がおろさないらしい。
 まず感じていたのは、ICCの学芸員さんのすごさだ()。オーサグラフのことを考えてもそうだけれど、ICCってえらい。とても貴重な場だと思う。それぞれの企画をどのくらいの規模の組織でどんなふうに動かしているのかはわからないが、あの面々をキャッチし、ひっぱりだし、組み合わせ、そこから新たなものを創り出しているのは、やはり学芸員さんの力によるところが大きいのだろうと想像している。

 そして、なぜ時間なのかで書いたように、金子由紀子さんのアスペクトの本を企画・編集しているエディターさんもえらいと思う。そうしてeditという言葉が気になり始めたのだった。

 ちなみに、現在私は金子由紀子さんの本を8冊もっているけれど(最新刊は自分のタイミング待ちで未購入)、情報量としては4〜5冊分くらいだと感じている。つまり、ダブっている話が多いのだ(それが受け入れられない人にとっては、2冊目で残念な思いをする著者かもしれない)。こうなると何が気になってくるかというと、出版社による違い。その違いの出所が金子由紀子さん自身の考えあるいは当時の状況によるものなのか、編集側の意図なのかはわからない(ちなみに個人的には、アスペクトのほかは大和書房の『片づけのコツ』がおすすめ)。しかしひとりの著者をずっと見ていると、時の流れや出版社による文脈が見えてきて面白いのだ。なお、最新刊が家の光協会から出ているのを知ったときには、なるほどねぇと思った。持たない、買わない、つくる、ときて、「育てる」にきたんだな。

 というのは著者一人の本の話だけれど、複数の著者のいろいろなジャンルの本でいえば、23 STYLE本の整理法で書いた安藤哲也さん(同姓同名の方ではないことを祈りつつリンク)の文脈棚ことが思い出される。「1冊1冊は独立した本でも、棚の中でそれらが並んで集合体になったとき、隣り合った本と本とはけして無関係ではなく、文脈が存在する。その縦横無尽の本の並びにより、思いもしなかった好奇心と想像力が読者の心に溢れ出る」という話。

 話を郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』にもどすと、この本には当然のことながら巻末にたくさんの参考文献があげられており、自著を含めて100冊くらいの参考文献が示されている。もちろん、このようなタイプの本では珍しいことでもなんでもなく、あたりまえのことだろう。しかし、あらためて考えると---すごく乱暴にいえば---この1冊は、100冊あまりの本のエッセンスを、郡司さんなりに編集したものといえるのかもしれない。この本にオリジナリティがないとか、そういう話ではまったくない。

 そうして思い出すのは、かつて自分が書いた「わたしの考え」と「だれかの考え」の境い目というエントリのこと。私はこれまで何かにつけ、いつのまにか「わたし」を所有格で考えていたのではなかろうか。だからいつまでたっても「主体」から逃れられないのではなかろうか。「学ぶということは、いろいろな知識や考えを自分の文脈でつなげること」であり、「学ぶことの楽しさは、いろいろな知識や考えがひょんなところでつながっていくこと」言い換えると「学ぶことの楽しさは、いろいろな知識や考えが自分の意図・計画・予想とは別のところでつながっていくこと」だと思っているのだけれど、どちらにも「自分の」という言葉が入ってしまっている。
 
 そんなふうに「編集」という言葉をキーワードにあれこれつらつら考えていると、いやがおうでも松岡正剛さんのことが思い出される。「千夜千冊」にはいつもいつも圧倒され、刺激を受け、意欲をかきたてられるのだが、つい先日、生物、人間、量と法則のからみあいでリンクさせていただいたヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』での最後の一節に、私はがつんとやられたのだった。
ユクスキュルは、世界や現象を語るにあたっては「巨大な装置を持ち出すな」と言いつづけた生物学者だった。そういう恥ずかしいことを考えるなと言ってきた。(中略)
 問題の解決をはるかなる過去に求めるのはやめなさい。問題の解決をはるかなる将来に期待するのもやめなさい。すべてのデザインと、そして「意味の編集」は、目の前にこそころがっている。ユクスキュルはそう断言してみせたのだ。
 松岡正剛さんいわく、「ユクスキュルは、知覚の世界の只中に “その意味を利用するもの” というキャリアー(担い手)あるいはインターフェースの視点をもちこんだ最初の生物学者となったのである」。

 やっぱりすべてはつながっていくのだ。

 しかし、つながっていくこと自体は不思議なことではない。ある意味、あたりまえのこと。面白いのは、その順番、タイミング、プロセス。文脈は、時間と無関係ではいられない。というより、時間そのものなのかもしれない。
郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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