TETRA'S MATH

数学と数学教育
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なぜ時間なのか

 郡司ぺギオ-幸夫さんは、『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』のあとがきで、次のようなことを書いておられる。
 当初、時間論一般や、マクタガードが論じる時間について、何を議論しているのかぴんとこなかった。それは、時間という問題が、自分の日常生活において、あまり切実な問題でなかったからかもしれない。時間がない、時間が惜しい、過去を悔いる、未来を計画する、などについて思い描くことは、あまりない。…(中略)…。時間と「わたし」は密接な関係にあるが、私の注意は時間よりもいつも「わたし」に向いてしまっていた。
 私も、少し前まで時間にはあまり興味がなかった。時間がないとか、時間が惜しいとか思うこともほとんどない。ただし、過去を悔いることはよくあるし、未来について思いをめぐらすことも、時々ある。しかし、郡司さん同様、私の注意は時間よりも「わたし」に向いていたのだと思う。

 それがなぜ「時間」が気になり始めたか、ふりかえってみると、大きく3つのできごとがあげられるように思う。
 まず、金子由紀子さん『わたし時間のつくり方』という本を書かれたこと。この本は、本人が書きたくて書いたというより、“時間の使い方”をテーマとして与えられて書くことになった本らしい。金子さん本人は、はじめこのテーマを与えられたとき、冗談かと思って笑ってしまったそう。「私、ミリオネーゼじゃないですよ!」と。こういうテーマは本来「成功」した人が書くものであり、自分のような凡人は読むことこそあれ書くことはない…そう思っていたそうだ。

 しかし、金子由紀子さんに「時間」をテーマに本を書かせた人はえらい(鋭い)と私は思った。それがどなたかはよくわからないのだけれど、この本のエディターさんも出版社も『持たない暮らし』『買わない習慣』と同じであることにもとても納得がいった。金子由紀子さんはおもにモノと暮らしの関係について書いておられる方だが、「暮らし」とはまさに時間の問題であり、モノとトキとは深く関わっているのだと思う。そしてそこには、「等身大」という基本姿勢がある。要するに、金子由紀子の人生哲学を空間を切り口にするか、時間を切り口にするかの違いだと思った。驚くような時間の使い方が書いてあるわけではない。「わたし時間のつくり方」というタイトルが象徴的だ。

 2つめは、母のこと。老いるということはどういうことか、老いを受け入れるということ、老いを作るということはどういうことか、をここのところずっと考えて続けている。また、娘の成長のこともある。

 そして、3つめは、郡司ぺギオ-幸夫さんが別の本に書いておられる次の一文だった()。

 生命とは時間の別称である。

 雑誌『かぞくのじかん Vol.11』(婦人之友社)が欲しかったのは、金子由紀子さんの文章が載っているのを知っていたから。例のごとく、金子さんが何を書いているのかおおよその察しはついていたが、それでも手にしたくて、近所の本屋さんをさがしてみたのだが見つけられず、amazonで注文することにしたのだった。

 期せずして、じかんの雑誌が、時間の本を連れてきた。
郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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