TETRA'S MATH

数学と数学教育
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内包量の二重構造から思い出した、関数教育の現代化のこと

 そんなこんなで、内包量の二重構造の意味がよくわからず、つらつら考えていたときに、そうだ、北海道教育大学岩見沢校・宮下英明先生は関数をどう捉えているのだろう?と思いつき、図説 数学教育「関数」の指導をのぞきにいきました。何しろ宮下先生は、“数学になっていない”学校教育の算数・数学を憂い(「数と量」の領域において)、その原因の大部分を遠山啓の「量の理論」の影響にみておられる(?)ようなので、参考になるかもしれないと思ったからです。で、現行の関数指導の旧さ学校数学は,「関数」を「変わり方」の話にしてしまうというページを読んでいたら、遠山啓の主張した関数教育の現代化のことを思い出しました。

 もう一度、銀林先生いうところの2種類の内包量を確認しておくと、直接的内包量とは、xとyが比較的近くにある場合、つまりxとyとの関連が直接つかまえられるくらい接近している場合であり、これとは別に正比例関数を介して構成される内包量がある、という話でした。そして、後者の内包量には、前者の内包量のような認識上の制約がない、としています。
 これは,関数(写像)というものが,2つの変量の
          入力-出力
という対応関係だけに着目して,その間の具体的機制(mechanism)をいっさい問題としないおかげである。
 入力-出力という文字を見ると、やはり「ブラックボックス」のことが思い出されます。
 遠山啓が関数教育の現代化を提唱していたことは、ブラックボックスとはなんであったのか・3ブラックボックスとはなんであったのか・5 に少し書きました。しかし遠山啓は、関数教育の現代化を提唱しながらも、結果的には「変わり方」を扱う18〜19世紀の関数を高校数学までの到達点にしたのだと思います。

 そして、遠山啓の「量の理論」においては、「量的比例」と「関数的比例」という区別があります。均等分布が考えやすい「度」や「度的な率」が「量的比例」で、これは静的な比例とされており、一方、二つの変数のあいだの動的な対比は「関数的比例」と呼ばれていました。

 一方、『量の世界・構造主義的分析』を書いた約20年後の銀林先生は、『時代は動く!どうする算数・数学教育』(国土社/1999年)において、「桎梏と化した指導要領体制」という文章を書いておられ、その中で小学校での比例・反比例の扱いについても分析されています。
よく知られているように,比例には,同一物体の二つの属性を対照する量的比例の段階と,遠く離れた二つの物体のあいだの因果関係の反映を考える関数的比例の段階の二つがある。前者が単位あたり量の考え方を使うだけで解けてしまうのに対して,後者は対応としての関数概念を必要とする。この両者が小学校6年で扱われているのは,小学校までが義務教育であった時代の名残にすぎない。
 おそらく、『量の世界・構造主義的分析』での内包量の二重構造は、「量的比例」と「関数的比例」に対応した話だと考えてよいのだと思います。ちなみに、『量の世界・構造主義的分析』では、関数の意味そのものについては、法則、働き、生産、暗箱、患者、生物といった幅広い例が出されていますが、「量」の本なので、その後も基本的には加法(と連続性)を保存した“量”についての話になっています。量の本ですから、あたりまえといえばあたりまえでしょう。

 しかし、遠山啓としては、関数教育をさらに発展させたところまでもっていきたかったのであり、その“シェーマ”がブラックボックスだったのだと思います。実際、数教協の先生方がブラックボックスを使うときに、「ふた」→「ぶた」、「カラス」→「ガラス」というようなことをよくやっていたのではないかと思います(参考ページ1参考ページ2)。そこに「量」はありません。

 遠山啓は、数学教育の中に微分積分をどのように位置づけるかという難問題の中には、近代数学と現代数学との本質的な対立が横たわっている、としていました。また、「微分積分をむりやりに構造の中に押し込めないためには、微分積分における狭い意味の関数---変量の関数---と現代数学における対応・写像・操作・変換としての広義の関数は、いちおうは独立のものとして指導したほうがよいのかもしれない」(『量とはなにか−機p279から要約/1966年初出)とも語っています。

 そうして、関数の始まりである比例の“シェーマ”として水槽が提案され、関数の“シェーマ”としてブラックボックスが打ち出されたわけですが、上記のような話をきくと、水槽とブラックボックスの間にかなりの飛躍が感じられても不思議はないのかもしれません(まずは水槽自体に無理があるけれど>)。「変量の関数」と「現代数学における広義の関数」は、いちおうは独立のものとして指導したほうがよいのかもしれないという遠山啓の言葉をきくと、近代数学と現代数学の対立点の解消(融合?)は、一筋縄ではいかないのだろうなぁ…とあらためて思うことでありました。
遠山啓の「量の理論」 | permalink
  

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