TETRA'S MATH

数学と数学教育
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内包量を二重構造で考える意味

 銀林浩『量の世界・構造主義的分析』を読んでいます。

 きのうのエントリのような話をきくと、なるほど、内包量には直接的なものと間接的なものがありそうだ、という話が少し納得できてきました。ぱっきりわけられるものではないだろうし程度問題という気はしますが、1つの物体の「質量」と「体積」や、ある人が歩いた「時間」と「距離」にくらべ、「ガソリンの量」と「走行距離」は離れているといえば離れています。何しろガソリンで走る自動車がないとこの2つの量は結びつきそうにないし、そんなふうにして“作られてきた量”というものはたくさんある気がしてきました。

 銀林先生のいう直接的内包量とは、xとyが比較的近くにある場合、つまりxとyとの関連が直接つかまえられるくらい接近している場合でした。

 一方、正比例関数による内包量の創出には、そのような認識上の制約がない、としています。だから、2つのかけはなれた物体A、Bのそれぞれの側面x(A)とy(B)を結びつけることも可能である、と。

 銀林先生は、このような内包量の二重構造を、 

    内包量→正比例関数→内包量

という図式や、下のような図を用いて説明しています。

     

 また、「この図式は、あとの内包量が前のそれを画期的に拡大したものとなっているときにのみ、意味をもつ。ところが、緑表紙は公式を中心に据えたために、この大事な本質を見失ったのである」というようなことも書かれています(p.155)。

 公式がわかっているということはどういうことかというと、y=axのaがわかっていることなので、内包量がわかっているということです。自動車の走行距離の例で見たように、正比例関数の考察は内包量がわかっていなくても(公式がなくても)可能であり、その正比例関数から創出されるのが、後者の内包量でした。これは、関数fのままではとえらにくかったガソリンの量と走行距離の関係を、走行能率という1つの内包量で表すことであり(>抽象的な関数より、具体的な内包量)、「後者を土台にしてさらに先へ分析を進められることをも意味する」ことになります。こうなるとがぜん、量分数の考えに近くなります。

 さて、とはいえあいかわらず私の中には「何ゆえ内包量を二重構造で考えるのだろう?」という疑問があり、それについてつらつら考えていました。そうしたら、ふと思い出したことがありました。内包量からはなれますが(そしてこの本の内容からもはずれますが)、遠山啓の「量の理論」が関数教育で何をしようとしていたのかについて、いったん考えておきたいと思います。

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