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数学と数学教育
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『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』(郡司ぺギオ-幸夫)を手にしてから数日間のあいだに思ったこと

 本日、常体にて。

 過去に、郡司ぺギオ-幸夫さんの本を3冊(単著2冊、共著1冊)図書館から借りたことがある。3冊ともほとんど読まずに返却した。読めなかったのだ。3冊手にして読めないのなら普通はもう手にしないだろうに、なぜかそうならなかった。タイミングの問題だろうと思った。あるいは、郡司さんの本は図書館から借りたものでは読めないのかもしれない、とも思った。

 で、先日、雑誌「かぞくのじかんVol.11」をamazonで注文したときに、一緒に『生きていることの科学』を買おうかなぁ〜と物色していたら、『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論 (講談社選書メチエ)』のほうが目にとまった。一応チェックしておこうと思い、レビューはないようだったので内容説明を読み始めたら、次の一文につかまった。
「わたし」には現在しか許されない。
 おお。

 なんというポジティブな否定形。

 この一文でしばらくご飯が食べられそうだ。

で、購入。いま思うと、しばらくこのこの一文だけで自分の勝手な妄想を広げるのも手だったかもしれない。ちなみにamazonでの内容説明の一節は、本の裏表紙にも書いてある。本文からの引用。うまい抜き出し方だと思う(そしてやはり、この一文のみを読んだときと、本文の文脈の中で読んだときとでは、ずいぶん印象が変わると思った)。

 借りた本ではなく買った本だと、扱い方がラクだ。汚すことを気にしなくていいので、コーヒーを飲みながら読めるし、食卓の上にも置いておけるし、いつでも気軽に手にできる。そのリラックス感が功を奏したのかどうかはわからないけれど、読み始めのとき、「へぇ、郡司ぺギオ-幸夫さんもこういうわかりやすい文章を書くことがあるんだ〜」という印象をもった。そしてしばらく読み進むうちに、「このわかりやすさは大丈夫なんだろうか…」とだんだん不安になってきた。読者って(というか私って)勝手なものだ。すべてがすぐにわかるとは思わなかったけれど、丁寧に読んでいけば理解できるだろうという感触があった。これまでの本にはなかった感触だ。ふと気になって発行年を確かめてみると、これまで手にしたどの本よりも新しい(2008年9月)。なんというのか、わかりやすさに加え、著者の使う一人称としての「私」の語調が若干マイルドになっているような気がした。この本よりあとに刊行されている共著もあるので、いつかのぞいてみて、これがたまたまなのかどうかいつか確かめてみようと思った。

 さて。

 それはそうとして。

 話はいったん変わり、郡司ぺギオ-幸夫さんの、とあるシンポジウムでのプレゼン映像のことをあした書こうと思う。
郡司ぺギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』 | permalink
  

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