TETRA'S MATH

数学と数学教育
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正比例関数を介さず、直接的に構成される内包量

 銀林浩『量の世界・構造主義的分析』から、「第4章 比例関数」を読んでいるところですが、きょうはいったん「第3章 内包量」にもどります。

 前回までみてきたように、正比例関数があれば、そこから内包量を生み出されることがわかりました。しかしこの内包量は、正比例関数があって初めてつくり出される量ともいえます。走行能率という内包量は、自動車という1つの物体の属性ですが、ガソリンを使って自動車を走らせてみなければ意味のない量です。つまり、走行能率という内包量は、ガソリンを距離に変えるという正比例関数をへないかぎり、決して構成されることのない内包量だというわけです。

 これに対して、関数を考えることなしに、物体から直接的に構成される内包量というものがあります(と、銀林先生は考えられたようです)。これは「第3章 内包量」で扱われています。つまり、正比例関数から生み出される内包量よりも、関数を考えることなしで直接的に構成される内包量のほうが話が先になっています。
 このような直接的な内包量については、「スキヤキ用の牛肉の価格」が例として取り上げられています。牛肉を買うときの「高い、安い」という感覚はどのように比較され、どのように数値化されるのか、という話です。

 同じ分量の肉ならば価格で比べられるし、同じ価格の肉ならば分量で比べられますが、分量も価格も違う場合はどうするのか?ということで、どちらかをそろえるということを考えます。そうして、1gあたりの価格を比べるという発想が起こり、ここから内包量の説明がなされていきます。
…すべての場合について比較を行なうためには,外延量xの単位当たりに対する外延量yの「大きさ」,すなわち商
          y/x
を求めてやればよい。
 このように,2つの外延量の商として数値化(評価)される量を,内包量(intensive quantity)といい,分母にくる外延量xをその基底外延量略して土台量とよぶ。この内包量を構成する2つの外延量の単位同士を割ったものが,その内包量の単位である。
(p101)

 なお、1g当たりの値段ではなく、1円あたりの分量によって比較することもできます(逆内包量)。

 さらにこの内包量がいろいろな観点(2つの外延的のそれぞれが分離量か連続量か、空間型・時間型、分布型・位差型)で分類されていきます。

 この中で、空間型であり、かつ分布型であるものはどういうものかと考えると、1つの物体A(またはごく近くに連結した2つの物体の組A)の2つの側面であるx(A)、y(A)の商

          m=y(A)/x(A)

で、一般に「密度」とよばれているとして、次のような図式(シェーマ)が示されています(p106)。
     
     

 空間量yが空間量xの上に「一様に載っている」図です。商m=y/xは、基底外延量xの各単位当たりの上に載っているyの分量を表しているともみられるので、基底量xを横に延びた線分で表し、分子yをその上に位置する長方形で描くわけです。この場合、内包量mは長方形の縦の長さで表現されます。

 また、勾配や速度といった位差型の内包量に関しては、直角三角形の“シェーマ”を示しています。

 密度・流量・勾配・速度といったタイプの内包量は、いかなる法則も介さずに、ただ一様性あるいは均質性を前提とするだけで直接的に構成できるので、これらは「典型的内包量」だというわけです。

(p99〜109の要約)

       *       *       *

 上記引用部分の長方形の図は、算数教育におけるタイル図で乗法を理解しようとする意味の図につながっていくのでしょう。

 あのときに佐伯胖氏は略図を使った授業例を示しましたが()、数教協の先生の授業においても、佐伯氏の授業例においても、針金は一様に作られているという「比例関係」を前提にしていると私は感じていました。「長さ」と「重さ」という2つの量を使って小数のかけ算を学ぶとき、普通はダイコンやニンジンやゴボウは使わない。

 そういう感覚をもっている私には、銀林先生の言われる「直接的に構成される内包量」と「正比例関数という法則を介して構成される内包量」の厳密な違いがわからないのです。「一様性あるいは均質性を前提とする」ことと、そこに「正比例関係があるとみなせる」ことは、本質的に何が違うのでしょうか? 人間が製造した一様な太さの針金の線密度と、理想的な自動車の走行能率とは、何が異なるのか。物質の密度が決まっていることと、自動車というブラックボックスの中で行われる様々な量の変換に法則性があることとは、何が異なるのか。そもそも、スキヤキ用の牛肉を売るときに単価という発想が起こり得るのはなぜなのか。比べることを前提としない「内包量」があるのか。「内包量」がつねに比べることと密接に関わっているとしたら、比例関係を前提としない(比例関係よりも先にくる)「内包量」というものはあり得るのか?

 あるいは、違いがあることはなんとなくわかるけれど、そんなに大きな違いとは思えない、と言えばいいのかもしれません。内包量は、人間によって知覚され、構成され、共有され、利用される。そのことのコトの大きさから思うと、直接的か間接的かはさほど大きな違いではないのではないか、と。

 しかし、銀林先生の論において、この2つの内包量の違いは重要です。というわけで、内包量の二重構造についてさらに考えていきます。
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