TETRA'S MATH

数学と数学教育
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今後のためのメモ3/遠山啓とデカルト

 遠山啓著作集『量とはなにか−機p261〜262において、デカルトの『精神指導の法則』の話が出てきます。遠山啓は、その中に出てくる「順序(ordo)」を今日でいう構造、「計量的関係(mensura)」を今日でいう量に近いものではないか、と考え、もしこの想像があたっているとしたら、デカルトの「普遍数学(Mathesis universalis)」は、量の科学としての近代数学ばかりではなく、さらにそれを越えて構造の科学としての20世紀の現代数学までを遠く見とおしたものであったといえるかもしれない、と語っています。

 一方、「量の体系と微分積分学」という論文の中では、「微分積分というものをかんたんにいえば,人間のまったく基本的な思考の働きであるところの分析(analysis)と総合(synthesis)を徹底させたものだといっていいでしょう」(p233〜)という書き出しで、それまで“計算術”だととらえられがちだった微分積分学の本質を説こうとしています。

 この「分析と総合」は、水道方式にも出てきました()。出てくるというより、ある意味、水道方式は分析と総合そのものなのかもしれません。計算をいちばん小さい単位である「素過程」に分解し、各素過程を遂行して、あとでそれを結合するのだから。

 この「分析と総合」を近代科学の方法だと考えたとき、微分積分学の話をしているのだからそれでいいのかもしれませんが、きのうのエントリに書いたように遠山啓が現代数学の“その先”を見ていたとしたら、分析と総合の“その先”にある科学的方法、思考方法を考えなかったのだろうか?という疑問がわいてくるのです。で、おそらく考えていなかったのだろう、というのがいま現在の私の結論であり、そこに、遠山啓が本当にやりたかったことが実現されない(または妙な形で継承されている)鍵があるかもしれないなぁ…というようなことも感じています。

 遠山啓および1950年代、1960年代の数教協については、『時代は動く!どうする算数・数学教育』汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】(国土社/1999年)のなかの汐見先生の文章でかなりの部分納得したというか、なるほどね〜!と思ったのですが、あのときにいったんは納得した次の部分について、実はもっと慎重に考える必要があったのだと今になって気づきました。(>経験主義と系統主義双方に潜む困難

「経験主義は主体と客体の溝を不在と見なそうとしがちだったが、それに対して系統主義は別の角度から、やはり主体(子どもの認識の論理)と客体(教材の論理)の溝を不在と見なしがちであった」

 ここにすでに「主客問題」が含まれていたんじゃないか〜〜
遠山啓 | permalink
  

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