TETRA'S MATH

数学と数学教育
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割合分数論争を、「構造と素子」の視点で考える

 もうひとつ、初等数学に出てくる「構造と素子」の例として、量の分数があげられると思います。量の分数というのは、量を表す分数、簡単にいえば〜mや〜gのように、なんらかの量の単位がつく分数です。これに対して、〜倍というふうに倍をつけられるのが割合分数です。>割合分数と量分数
 
 たとえば、2このおだんごは3このおだんごの2/3倍であり、このときの2/3は割合分数、一方、2/3mの2/3は量の分数です。2/3mは1mの2/3倍じゃないのか?というつっこみは、いまはわきにおいておきます。

 遠山啓は、この「割合分数」に強く反対しました(>「数は量の抽象」vs「数は量の比」) 「割合分数」は、2つの分離量の関係としての分数だったからです。遠山啓は、分数は1つの連続量の抽象的表現と見るべきだ、と主張しました。

 なお、2mの棒は3mの棒の2/3倍としたときの2/3は、割合分数ではなく、分数で表した「割合」と考えたほうがいいと思います。たとえば棒の長さだと、1.2mは2.4mの何倍?をそのまま1.2/2.4という分数には表せません。つまり、分数△/○を、△と○という二つの整数の関係としてとらえるのが割合分数ということです。この点について、私は過去、混乱していたのですが(>割合と割合分数)、ようやく意味がわかってきました。

 なぜ、遠山啓は割合分数に反対し、量の分数を主張したのか? その理由を「構造と素子」という観点で考えるならば、割合分数は「構造」であるが、量の分数は「素子」であり、「素子」はその一段階上を考えるときに扱いやすいという発想があったからだと思います。
 つまり、2/3倍というときの2/3は、いつまでも2と3という、二つの別々の量の関係としての数であり、それそのものを一つとしては扱えません。一方、2/3mは、それを一つの長さとして扱うことができます。たとえば、割合分数は単純にたしたりひいたりできませんが、量の分数は(単位が同じであれば)そのままたしたりひいたりすることができます。

(じゃあ、分数のかけ算・わり算はどうなるんだ?という素朴な疑問がわきますが、この点については後日考えます。)

 量の分数は、量である以上、なんらかの単位をともなっており、その単位が直接比較・間接比較・個別単位・普遍単位という順序をへてつくりだされたことを考えると、量も構造をもっているといえます。しかし、いつまでも量を構造としてとらえるのではなく、自身の内部に構造をもっている量も、一方ではより大きな構造のなかの素子ともとらえられるのだから、素子として分数を扱っていこう、というのが「量の分数派」の主張でした。
もっと古いところにさかのぼると,クロネッカーの数概念では,素子として許されるのは,1,2,3,……という自然数だけであって,分数・実数はすべて構造としてとらえようとするものだといってよいだろう。このような方法では,高級な数はおそろしく複雑な構造となって,途中で結集を許さないので,たやすくとらえることが困難である。
これに反して,分数を一つの量としてとらえることは,分数を素子としてとらえることであり,より高級な構造にすすんでいくことを容易にする。つまり,量---とくに連続量---は,構造としてではなく,素子としてとらえることが教育的にはすぐれているといわねばならない。
 (遠山啓著作集『量とはなにか−機p256)
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