TETRA'S MATH

数学と数学教育
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遠山啓には、何が見えていたのだろう

 本日、常体にて。

 考えごとをしていたら、私が思う「量の理論」の根本思想のことを思い出した。2009年2月3日のエントリ。ほぼ1年前だ。まだ1年しかたっていないんだ。1年って、意外と長いかもしれない。

 あのとき私は、「算数と数学は子どもたちが,将来,自然科学や社会科学を学んでいくためのたいせつな基盤をつくってやるために教えるのである」という遠山啓の考えに対し、「本当にそうかな?」と感じていた。また、上記の考えを「自然科学や社会科学において、普遍であるものはなにか?」というふうな問いにも結びつけた。

 「本当にそうかな?」というのは、もっと言えば、「違うんじゃないかな?」という気持ちだったと思う。しかし、その「違うんじゃないかな?」という発想の中には、自然科学や社会科学に対する固まった考え方が含まれていたのではなかったか…と最近になって思う。

 自分が過去に使った「普遍的」という言葉にドキッとしたときのことを、ふりかえってみてというエントリに書いた。2009年3月26日。ドキっとするもとになった発言が2月2日の遠山啓の印象だから、1ヶ月半後だ。1ヶ月半って、けっこう長いかもしれない。

 そういうふうにして、何かの本を読んだり、だれかの意見にふれたり、自分で思いをめぐらせているうちに、1年や1ヶ月半のうちに、私の考えは変わる。しかし一方で、長い間、少なくとも10数年くらいは変わっていないものがあることを感じている。わたしのなかで<わかられることをずっと待っているもの>があるような気がする。というときのわたしという概念に、私はとても興味がある。その興味をつきつめて考えていくときの思考の手立ては、いったいどのジャンルにあるのだろうか。あるいは、ジャンルを渡り歩くことで、その手立てが得られるだろうか。

 なぜ自分はあのとき、「算数や数学は、自然科学や社会科学を学ぶたいせつな基盤をつくるために学ぶ」という意見に対して、「違うんじゃないかな?」と思ったのだろう。

 「数学は役に立つのか?」という問いをときどき耳にする。しかし、この問いに興味をもてたことがない。役に立たないと思っているわけではなく、そういう問いが立ち上がってくる状況について深く考えるのが面倒だったのだと思う。

 私は数学にお世話になっているな、とよく思う。でも、それは数学ではないのかもしれない、とも思う。数学は私が生きていくのにとても役に立っていると思うのだけれど、なんというのかその役立ち方は「数学は役に立つのか?」という問いの役立ちよりもっと根源的(原始的?)でダイレクトできわめて個人的---と形容するとどれも違う気がする---で、そういう役立ちは「役立ち」とは言わないのではなかろうか?という思いがあるのだ。いずれにしろその役立ちが、1年前は「自然科学」や「社会科学」という言葉には結びつかなかった。

 量の理論を打ち出した遠山啓は、開いた動的な現象の例として、「生命」と「社会」をあげた()。そのココロを、これからも、ゆっくりとさぐっていきたい。
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