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遠山啓の「量の理論」は集合から出発する

 遠山啓は、集合という概念自体を小学校から追放すべきではないと主張し、その根拠に十進構造と算用数字の関係を示しました。(なお、ここでいう集合は「集合」という術語ではなく、概念としての集合です)

 しかし、“十ずつ束にする”ことを「集合づくり」と言われると、少し大げさな気がしないでもありません。わざわざ集合をもちだすほどの話なのだろうか?

 そこで先を読んでみます。遠山啓はこう語ります。

 「皿のなかにミカンがいくつありますか」という問いのなかには、ミカンの集合が考えられている。この問いはミカンの集合の量を問題にしているが、そのためには、その集合の要素が等質もしくは等質に近いものであるという前提が必要である。つまり、集合から量が導きだされるためには等質化という条件が加わらねばならない。2個のミカンの集合と3個のリンゴの集合との合併集合をつくることはつねに可能であるが、2+3=5という加法によって、その集合に5という量を与えることはふつうやらない。ミカンとリンゴは異質だからである。だから、クライン流にいえば、集合の各要素が等質で、いれかえ可能なとき(ある集合が対称置換群を許容するとき)、はじめて量の概念が発生するといえる。量よりさらに抽象的な概念が数である。3個のミカンと3個のリンゴは量としてはまるで異なったものであるが、数としてはおなじである。その根拠は1対1の対応づけが可能であるからである。
(『量とはなにか−〈1〉』p.82〜83より要約)

 だいたい上記のような理由から、遠山啓は<集合→量→数>という概念の発展系列を数学教育の主軸の1つと考えました。なお、集合から出発したとしても、量を放逐して<集合→数>という系列をとることも不可能ではないが、その場合、分離量(自然数)まではいけても連続量(実数)になるといきづまる、と遠山啓は主張しています。

 たとえば 2kg+3kg という計算を考えるとき、これを2+3と完全におなじものと考えて、2このおはじきと3このおはじきを思い浮かべて 2+3=5 と計算し、その答えに圓箸いγ碓未鬚弔韻襪海箸任蓮2kg+3kgのほんとうの意味はわからない、この加法の演算をひきおこした原因はいったいなんなのか、そこまで考えるのが量の体系というわけです。

 まず忘れてはならないことは、2kgそのもの、3kgそのものはけっしてこの世の中には存在しないということ。それらはいつもなにものかの重さとしてしか実在しえない。Aという物体の重さをm(A)、Bという物体の重さをm(B)で表したとすると、AとBを合併した物体の重さがm(A)+m(B)となる。Aという物体とBという物体を集合論のように∪という記号で表すと、A∪Bで表される。ここの合併は共通部分のない場合の合併なので、A∩B=0とかける。したがって、重さについては

   m(A∪B)=m(A)+m(B),   (A∩B=0)

という式が成り立つ。これまでの算数教育はm(A)+m(B)からあとをやっていたのだけれど、もっとさかのぼってA∪Bから考えさせようというのが「量の体系」でした。

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