TETRA'S MATH

数学と数学教育
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永遠の、いま

 遠山啓『量とはなにか−機戮痢岫后殞未糧展」の中で、次のような話が出てきます。(p268〜269/引用ではなく要約)


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 1,2,3,……と数えすすんでいくことによって、いかに大きな数をも追い抜くことが可能であると考えるときの無限は、“可能性の無限”ともいうべきものである。あるいは“時間的無限”、もしくは“動的無限”。

 しかし、直線を点に分割すると、それらの点は時間的な順序にならんでいるわけではなく、空間的に同時に並存しているのだから、それは“空間的無限”もしくは“静的無限”ともよぶべきものであった。カントルはそのような無限を“実無限”と名づけた。
 
 “実無限”は当時の学界に大きな衝撃をまきおこし、少数の賛同者と多数の反対者をつくりだす結果となった。研究の進行につれてカントル自身もしばしば自信喪失に陥る。懐疑が深まるにつれて、彼は哲学のなかによりどころを求めたが、近代の哲学には実無限の先験者を見いだすことができず、遠くアウグスチヌスの“永遠の、いま”のなかにそれを探しあてることができた。

 全知全能の神は永劫の過去から永劫の未来までを一瞬のうちに見とおすことができるから、人間的な時間はそこで消滅し、すべてが空間的となるとすれば、それはカントルの実無限のささえとなるだろう。

 カントルがまきおこした無限をめぐる議論はいまだに終わっていないし、おそらく数学という学問の中に住みついた永遠のアポリア(難問)であろう。
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 遠山啓にこだわっているとほんとうに面白いなぁと思うのは、「時代」というものが浮かび上がってくることです。ひとつには戦後の民間教育運動という側面があり、もうひとつには数学教育の現代化という側面があると思います。

 遠山啓を理解しようとすることは、上記の2側面を理解しようとすることなのかもしれません。
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