TETRA'S MATH

数学と数学教育
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結城浩『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』を物語として読むとき

 あの年の5月。ミルカさんが「僕」にどんな話をしてくれたのかをすっかり忘れていたのです。

 ミルカさんはあのとき《数列クイズに正解なし》という話をしてくれていたのです。そして、「世の中のことって、たいていそうじゃないかな」って語ってくれていたのです。

 きょうというタイミング(クリプキの話が一段落したところ)で『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』の感想をアップしようということだけ決めていた私は、『数学ガール』のオープニングを読みなおしながら、そうか、そういうことだったのか…としみじみ感じています。

 というわけで、きょうは結城浩『数学ガール/ゲーデルの不完全定理』についての感想を書こうと思います。今回も、前回に続いてオンラインレビューに参加させていただいたので、まっさらな読者の感想とは言えませんが、そのこと(レビューしていたときの感想がまざってしまうこと)をあまり気にせず、書いてみようと思います。

 なお、数学的ネタバレは皆無ですが、物語的ネタバレを若干含みます。

        
 『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』は、『数学ガール』『数学ガール/フェルマーの最終定理』に続く“数学ガール”シリーズ3作目です。読み物としてはそれぞれ独立していますが、時間は流れています。
 
 そう。

 私が3作目を読みながらいちばん感じたことは、「時の流れ」でした。

 1作目の中ですでに時は流れているのに、そのことをあまり意識していなかった。入学式から始まるので「まだ始まったばかり」という感覚があったのでしょう。高校1年生の時間がサクっと流れているのにひきかえ、高校2年生のなんという濃密さ。「僕」とミルカさんに、テトラちゃんが加わったことで、時間の密度がぐっと増しているのです(と、描かれています)。しかし日々は確実に過ぎていき、季節はめぐり、登場人物たちの学年が変わる。それとともに登場人物たちは成長していくし、登場人物どうしの関係性も少しずつ変化していきます。「僕」とガールたちの“間柄”に大きな進展はないとしても。

 2作目あたりで気づいてもよさそうなものなのに、あいかわらず時の流れに無頓着だった私。でも、3作目で気づいてしまいました。『数学ガール』は「サザエさん」じゃなかったのだ。

 永遠に小学校5年生のカツオ、永遠に小学校3年生のワカメ。彼らの1年は365日におさまらない。季節はあるけれど1年を超えることのない「とまった時間」の安心感の中で、少しずつ聞かせてもらえる面白おかしく温かいエピソード。

 『数学ガール』にそれを求めてはいけなかったのだ。

 時は確実に流れる。

 あのきらきらしたみずみずしい時間を、永遠の中に閉じ込めることはできない。いや、永遠の中に閉じ込めることはできる。閉じ込めて永遠にすることはできる。物語として、思い出として、過去として。しかし、永遠の中に閉じ込めたままずっと続けることはできない。いずれ必ず終わるときがくる。たとえそれが次の始まりだとしても。いつまでも、ここにはいられないし、ここにはいない。この物語はいつか終わる。別の物語として始まることはあっても、あるいは描かれないことはあっても、終わらないことはない。

 今回は「進路」の話も出てくるので、その切なさもあったと思います。高校生当時の自分と重ね合わせてあれこれ思い出したし、いま現在の自分への問いかけ-----私はどこにきているのか? これからどこに行くのか? どこかへ行くのか? 行きたいのか?-----もありました。

 余談ですが、自分の年齢を客観的にながめてびっくりした瞬間と言って思い出すのは、確か大学生くらいの頃、高校球児が自分より年下だということに気づいたときです。テレビで見る「甲子園のおにいさんたち」がいつのまにか年下になっていたなんて。ましてや、自分がサザエさんとおない年になったことに気づいたときのショックといえばそりゃもう。ということさえ今は懐かしい。そして気づけばフネさんの年齢に近づきつつある…

 思えば、『数学ガール』の登場人物の中では、立場的にも年齢的にも「僕」のおかあさんがいちばん近いのだから、リアルタイムで感情移入するのならばおかあさんが対象となってもよさそうなものですが、なんだか遠いのです。フネさんくらい遠い。お茶目で可愛らしくてタフ。おかあさんの時間だって流れているだろうに、定点観測をしてもらえそうな安心感がある。本来は私も「私はどこに行くんだろう?」って悩んでいる場合じゃなく(いや「僕」のおかあさんだって日常いろいろなことで悩んでいることでしょうが)、未来に向かって立ちすくむ若者に、軽やかに発想の転換を促す位置どころにいるのかもしれません。でも、病気の娘を抱えて夜中に病院に駆け込むような経験を何度かしても、なかなか「大丈夫!」とポンと背中をたたく域にいけないのでした。まだまだだれかに「大丈夫!」とポンと背中をたたいてほしい心持ち。娘が高校生になるまでには、もう少し貫禄がついているだろうか?

 いつのまにか過ぎていく時の流れを、1つの物語として、あるいは過去の一場面として思い描く、たったいまの自分も時の流れの中にいる。ということを考えるときでさえ、けして時の流れからは開放されない。どんな思考も思索も回想も時間で成り立っている。閃光のような一瞬も、滞る時間の澱も、繰り返しのリズムの中から立ちのぼり、やがては回収されていく。ということを、時の流れの中でふりかえる。そして前を向く。繰り返しのリズムの中から何が立ちのぼってくるのかわからない。次に何が起こるかわからない。時間の可能性は、つねに開かれている。

 そして、予想外のことが、まるで必然であるかのようにつながる瞬間があり、そのときどきの自分の心の声に耳をすませているだけなのに、己の意思とは別のものにいざなわれていく感覚を味わうことがあります。たぶんそれが、時を越えた<私>なのだと思います。

 3作目まで読んだあとに、『数学ガール』(1作目)のプロローグを読むと、はじめて読んだときにはなかった重み、せまってくるものを感じます。『数学ガール』が回想の語り口で始まることを知っていたはずなのに、あの時の中に私もリアルタイムで入り込んでいたのです。

 実際、2作目のときまでは映画を見るように本を読んでいたのに対し、3作目のときには、あの場所や、その場所に、私もいっしょに行っていました。

 「僕」の卒業まであと1年。

 きっと、あと2作分は一緒に数学できるだろう、あのきらきらした時間の中に、また、まだ、私もいけるだろう。そんな勝手な(あくまでも勝手な)期待を胸に、3作目を閉じました。

 何よりも自分のものにしたいのは、生きる私の時間です。

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