TETRA'S MATH

数学と数学教育
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「数学的」という言葉の規範性と不定性

 辻下徹「生命と複雑系」に出てくるクリプキのプラス・クワスの懐疑論を読んでいます。

 さて、68+57=5 と計算する人がいて、その計算の意味は納得できるものだとしても、「ぶっちゃけ、フツーそうは計算しないでしょ?」と言いたくなるというもの。プラスの意味が確定しなくても、私たちはフツーにプラスの計算をしているし、実生活で困ることはありません。

 しかし、上記の懐疑論者のような計算方法が出てくる可能性が払拭できないのも確かです。そして、そのつどプラスが不定性を残していたことが判明することになります。

 これはプラスだけではなく言語一般の様相でもある、と話は続いていきます。それぞれの言葉はある状況で明確に決まったふうに使えるのが理想であると普通は考えるけれども、プラス・クワスの議論からわかるように、言葉の確定した「意味」はありえない。つまり、言語は局所性と規範性をもっている。
 いまここで新たな2数のプラスを計算する場合、プラスのどんな明示的規則を持ってきても不定さが残っています。しかし、それにも関わらず、その不定さをなんなく飛び越えて私たちは計算をしてしまいます。計算結果の正誤に意味はないけれど、ふつうは「正しい答え」と判断されます。
しかし、その計算自身が行った不定性の解消自身はその後は同じ計算に対しては規範的な効果を持つ。
 なお、計算結果に正誤はないけれど、勝手な結果を出してよいのではなく、「唐突で無い」という点は重要で、前からその規則に従っていたとさえ思えるような新しさが必要であり、予想外ではなかったと思えてしまうようなものしか問題にならない、と辻下さんは書いておられます。なるほど、それは確かに。(ちなみに、この点を度外視するのが「規約主義」とのこと)

 で、ここからが面白いのですが、不定性をもつ言葉の有効性を考えるのに、「数学的」という言葉が取り上げられています。プラス・クワスの議論で考えたように、「数学的」の意味を確定することはできず、この言葉も不定性をもっている。そこを考えてみようというわけです。

 数学者以外の人が考える「数学的」なやり方は、計算したり論理的に議論したり作図したりすることで、「数式」を使うことが「数学的」ということと同一視されることもあるでしょう。
 しかし、数学者が留意することの一つは、(個人的な研究生活は行為の世界であり比較することは不可能なものなので触れようがないが)言葉や図形や記号などを使うときはそれをどのように使うかということを明確にする、という点にある。数学的議論も日常的な言語の中で行われるのであるから、すべての言葉の意味を確定しようというようなことはしない。少数の言葉を専門用語として選び出してていねいに扱うのである。用語をていねいに扱うことを強調したいときは公理主義的な表現をとる。
 語り口が数学的かどうかということは明確に決められないものの、唐突に万葉集を持ってきてこれが数学的議論だといってもそれは無意味なことになってしまう。
不定性はあるがほとんど確定しているかのように感じるということ、それが「数学的」に関する規範性であり、ほとんど確定しているかのように感じるが予想外の不定性が残っていること、それが「数学的」の局所性=不定性であり、それが新しい「数学的」の創発を可能にするのである。
 「それが」が続いていて、最後の「それが」の「それ」がどれなのかはっきりとわからないのですが、たぶん、「数学的」に関する規範性と不定性が、新しい「数学的」の創発を可能にする、ということだと思います。おお、なんとなく積極的になってきたぞ。

 そして、新しい「数学的」の創発の大きな例として、カントールの集合論があげられています。ちなみに、小さな例としては、ヒルベルトによる一般の群に対する基本不変式の存在証明があげられています。

 「生命を数学的に語る」ということが何を意味するか確定はできないけれど、「生命を詩的に語る」ということとは明らかに違う何かがある。予想外な「数学的」は、毎日それぞれの数学者の研究行為の中で生じていて、あるときには大きな創発として表面に現れてくる。プラス・クワスの懐疑論はこういう描像を明示しており、そこに明るさを感じるということらしいのです。

(つづく)
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