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数学と数学教育
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辻下徹「生命と複雑系」に出てくるクリプキの懐疑論・2

 さて、懐疑論者のクワスの発案は、どうにも気持ちがわるいものです。なぜ気持ちがわるいのかを考えてみます。

 懐疑論者がクワスを持ち出す以前には、自分のプラスの計算は正当としか思えませんでした。このプラスの計算だけでなくあらゆる2数のプラスの計算には「正しい答え」があり、自分はそれを計算できると考えていました。これはプラスの実在論と言えます。

 そして、クワスを出されたときに、確かにそういう計算でも文句は言えないけれど、そんなクワスは不自然で、そういう計算ではないことは暗黙の了解・常識だと言いたくなるわけです。つまり、暗黙の了解・常識といった概念が実在論を守る働きをしているということになります。

 とはいえ、数学の議論の中ではプラスの意味は確定しているように思える、それはなぜなのか。
 数学の議論の中でプラスの意味が確定しているように思えるのは、「以下同様」という言葉で意味が確定するという約束(数学的帰納法が使えるという約束)の上に数学的議論が成立しているからにすぎず、数学的にプラスが確定できることは数学的議論の約束から来るものだと辻下さんは書かれておられます。

 つまり、形式世界は、「以下同様に」で何かが確定する世界にほかならない。これはまた見渡せるということの別の意味でもある、と。

 どの数も次の数があることから自然数を産み出し、
 どの「ここ」の近くにも他の場所があることから
 宇宙空間を産み出し、
 いつも自分には知らない人がいることから社会を産み出す。

 今よりちょっと先があるだけしか確かでないが、以下同様に続くと考えると人生全体が生成され、こうして生成される「人生」は形式世界に属する。

 プラス・クワスの議論は「以下同様に」がいつも不定性を残していて、それによって「すべての」場合に何かが確定できるような性格のものではないということを示すのに成功しており、この点を考慮に入れると、世界そのものと見えていた形式世界がすべてではないことが明らかになる、ということらしいのです。

 しかも、欄外補足によると、角田秀一郎は「実はクリプキのプラス・クワスの懐疑論自身の意義も不定さを残している」と指摘しているそうです。また、郡司ぺギオ-幸夫は「クリプキの懐疑論自身がクリプキの懐疑論に適用されて明確な意味を失うという点にクリプキの真意があり、それを通して懐疑論すら根拠をもたないほど無根拠性は根源的であることが体験される」という視点を示しているそうです。

 うわーなんかめんどくせー(^^;と思えてくるので、先にこの議論の意義と「解決」の内容を書いておくと、要は、言語は局所性と規範性をもつということを明確にしたのがプラス・クワス懐疑論の意義であり、この懐疑論がもたらした結論の異様さはわれわれの言語観の誤りに由来している、というのが「解決」です。西條剛央さんの構造構成主義ではないけれど()、言われてみるとあたりまえと思えてくるというか、もうずいぶん前から知っていることのように聞こえるので不思議です。あたりまえのことを思い出すには、思い出すための概念が必要なのだな。

 さて、この議論がどう「積極的」なのか。そこが知りたい。

(つづく)
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