TETRA'S MATH

数学と数学教育
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辻下徹「生命と複雑系」に出てくるクリプキの懐疑論

 クリプキのプラス・クワスの懐疑論とは、次のようなものです。

 68+57 に対して、私が「125」と答えると、ある懐疑論者が来て、なぜ「5」ではなく「125」なのか、と問いました。その人は、x,yのいずれもが57より小さければ x(+)y=x+y そうでないときは x(+)y=5 となる演算クワス(+)をいままでプラスといながらやっていたらしいのです。これに対して私は反論できません。

 つまり、68+57 のような問題に対し、ある特定の答えを出すとき、私は、その答えを正当化することはできない、という話です。なお、本文中でクワスは丸付プラスで表記されています。

 初めからプラスの明確なアルゴリズムを周到に注意深く指定しておけば、「68+57=125」を正当化できそうなものです。しかし、どんなに周到に準備しても正当化できないというのがプラス・クワスの議論の骨子らしいのです。今度はアルゴリズムの適用というところで、懐疑論者は意地悪を言うことができるとして、次のような例が出されています。

 たとえば十進法による計算を (a) 2つの数を右端にそろえて上下にならべて書く。 (b) 右端から順に上下の1桁の数を加える。ただし、前の桁に繰り上がりがあれば、次の桁の計算結果に1を加える。 として与えたとします。

 しかし懐疑論者は (a) 2つの数を右端にそろえて上下にらべて書く。 (b) 右端から順に上下の1桁の数を加える。ただし、前の桁に繰り上がりがあれば、次の桁の計算結果に1を加える。 というびゅっ進法による加算で計算していたらしいのです。「らべて書く」の定義は、2数が57以下のときは普通に並べて書くが、そうでないときは上に5を書き、下に0を書くというものです(なお、本文そのものの引用ではなく我流で書き直しています)。

 他にもいくらでも揚げ足をとられてしまうことになります。

 そんなこんなで、自分が今までやってきたやりかたを適用しただけと思った自分の計算「68+57=125」には何の根拠もないこと、つまり「これまで従ってきた規則を適用した」が意味をなさないこと、さらに「なんらかの規則に従って何かをする」にも意味がまったくないことに気づかされるというわけです(と言われてこの段階で素直に納得する人はそれほどいないかもしれない)。  こうしてクリプキは

何らかの語で何らかの事を意味している、といった事はあり得ないのである。語について我々が行う新しい状況での適用は、全て、正当化とか根拠があっての事ではなく、暗黒の中における跳躍なのである。いかなる現在の意図も、我々がしようとするいかなる事とも適合するように、解釈され得るのであり、したがってここには、適合も不適合も存在しない。

(p.149/引用部分)

という異様な主張に到達するわけですが、何がびっくりって、辻下徹さんによると、「一見するとネガティヴなこの主張の中に驚くような積極的なものがある」らしいのです。

 懐疑論者のクワスの発案は、どうにも気持ちがわるいものです。なぜ気持ちがわるいのかを考えてみます。

 懐疑論者がクワスを持ち出す以前には、自分のプラスの計算は正当としか思えませんでした。このプラスの計算だけでなくあらゆる2数のプラスの計算には「正しい答え」があり、自分はそれを計算できると考えていました。これはプラスの実在論と言えます。

 そして、クワスを出されたときに、確かにそういう計算でも文句は言えないけれど、そんなクワスは不自然で、そういう計算ではないことは暗黙の了解・常識だと言いたくなるわけです。つまり、暗黙の了解・常識といった概念が実在論を守る働きをしているということになります。

 とはいえ、数学の議論の中ではプラスの意味は確定しているように思える、それはなぜなのか。

 数学の議論の中でプラスの意味が確定しているように思えるのは、「以下同様」という言葉で意味が確定するという約束(数学的帰納法が使えるという約束)の上に数学的議論が成立しているからにすぎず、数学的にプラスが確定できることは数学的議論の約束から来るものだと辻下さんは書かれておられます。

 つまり、形式世界は、「以下同様に」で何かが確定する世界にほかならない。これはまた見渡せるということの別の意味でもある、と。

 どの数も次の数があることから自然数を産み出し、
 どの「ここ」の近くにも他の場所があることから
 宇宙空間を産み出し、
 いつも自分には知らない人がいることから社会を産み出す。

 今よりちょっと先があるだけしか確かでないが、以下同様に続くと考えると人生全体が生成され、こうして生成される「人生」は形式世界に属する。

 プラス・クワスの議論は「以下同様に」がいつも不定性を残していて、それによって「すべての」場合に何かが確定できるような性格のものではないということを示すのに成功しており、この点を考慮に入れると、世界そのものと見えていた形式世界がすべてではないことが明らかになる、ということらしいのです。

 しかも、欄外補足によると、角田秀一郎は「実はクリプキのプラス・クワスの懐疑論自身の意義も不定さを残している」と指摘しているそうです。また、郡司ぺギオ-幸夫は「クリプキの懐疑論自身がクリプキの懐疑論に適用されて明確な意味を失うという点にクリプキの真意があり、それを通して懐疑論すら根拠をもたないほど無根拠性は根源的であることが体験される」という視点を示しているそうです。

 うわーなんかめんどくせーと思えてくるので、先にこの議論の意義と「解決」の内容を書いておくと、要は、言語は局所性と規範性をもつということを明確にしたのがプラス・クワス懐疑論の意義であり、この懐疑論がもたらした結論の異様さはわれわれの言語観の誤りに由来している、というのが「解決」です。言われてみるとあたりまえと思えてくるというか、もうずいぶん前から知っていることのように聞こえるので不思議です。あたりまえのことを思い出すには、思い出すための概念が必要なのだな。

 さて、この議論がどう「積極的」なのか。そこが知りたい。


〔2018年3月30日〕
 分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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