TETRA'S MATH

数学と数学教育
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問題の「個別性」とタイル図と構造

 小2のかけ算では、最後のほうで交換法則も学びます(交換法則という用語はナシ)。娘の通う学校で使っている学校図書の教科書をのぞいてみると、交換法則を説明するにあたり、子どもが並んだ絵が2通りに示されていました。片方は、前につめて1列に3人ずつ、5列に並んでいる絵。もう片方は、子どもの位置関係は同じで、横に手をつないでいる絵です。

 教科書を見る前は、机を並べた図になっているかな?と予想していたのですが、なるほど子どもの絵というのはいいかもしれません。机や物を並べた図では、(縦1列に何個)×(何列)、(横1列に何個)×(何列)と考えることを、結局、言葉や図としてのかき加えで説明するしかないけれど、子どもの絵の場合、縦につめて並ぶか横に手をつないで並ぶかという絵の描きわけで示すことができて、しかも1人1人顔や洋服で描き分けられているので、同じ子どもが同じ位置関係で並んでいることの把握がしやすく、全体の人数に変わりがないということも納得がしやすいです。

 そして 3×5=5×3 を導いていくのですが、考えてみればこれは 3×5 と 5×3 を違うものだと考えられるからこそ、=に意味があるのですよね。子どもが1列に4人ずつ4列並んだ図では、交換法則は学べない。
 (1あたりの量)×(いくら分)という定義の上で交換法則を学ぶときには、(1あたりの量)と(いくら分)が容易に交換できる問題を使う必要があり、逆にいえばかけ算の導入の段階では、(1あたり量)と(いくら分)の区別がつきやすい問題を選ぶのがよいのだと思います。

 しかし、タイルのかけ算のように被乗数も乗数もタイルで表し、全体の量を長方形状のタイルの並びで表すと、結果的に被乗数と乗数の違いがわかりにくくなり、またそうならないと意味がないということになります。タイルはもう具体の世界から半分とびたっており、1つ1つの問題の個別性を抜きさって、それらの問題に共通な「構造」を抜き出すことが目的なので。

 1つのお皿に2つずつ、3皿分のりんごの数も、
 1回に2枚ずつ、3人にわけたカードの数も、
 1列に2人ずつ、3列に並んだ子どもの数も、

   

という同じ構造をもっている。そして、乗法に交換法則が成り立つということは、どんな問題においても(1あたり量)と(いくら分)を入れかえた形に読み替えることができるということであり、「6×4、4×6論争にひそむ意味」で遠山啓が例に出したトランプ方式()も、まさにこの読み替えのことを言っています。

 読み替えがなかなかできない問題を作れないかな〜と思って、先日ページ数の問題を考えたのですが、たとえば「1日に6ページずつ4日間、計算ドリルをやりました。ぜんぶで何ページやりましたか」という問題では、1日にやったドリルのページに 銑Δ犯峭罎鬚弔韻譴弌同じ番号のついたページが4ページずつとなり、これを(1あたりの量)にできそうです。もっとうまい読み替えもあるかも。個人的には、分離量の場合、日数や回数のように時間性のあるものと、金額(価値)がからむ問題は読み替えが難しいと感じています。(なお、頭の片隅においている「“かけ算の順序”論争」において、シールの買い物の問題を「抽象的」と言ったのは、「8円」という価値を直接絵に示せないという意味です。8円と値札をつけることはできるけど。)

 で、さつきのブログ「科学と認識」>遠山啓は「かけ算の順序」についてどう考えたか(その2:助数詞廃止論)の中で、瀬戸智子さんのコメントが紹介された上で、
瀬戸さんの説明は一貫していて、この問題の場合、明らかに「1あたり」とは「一人あたり」でなければならない、その方が自然であるという発想に貫かれている。「回」は、具体物の数ではなく、普通は動作の数を表わしていて、英語では ”times” に相当し、物理学では無名数として扱う。だから、助数詞を単位とみなす以上、「1あたり」に相当するものとして「1回あたり」という発想は生まれにくいのかもしれない。
とさつきさんが書いておられますが、6人に4個ずつみかんを配ったとき、6×4 と 4×6 のどちらを“自然”と感じるかは人それぞれであるとしても、こと(1あたりの量)を「1つの容器にのっている量」で捉えるという考え方でいけば、4×6 のほうが妥当だと思うのです。もちろん、(1あたりの量)×(いくら分)という順序で書くということが前提になっています。

 というのも、全部配り終わったときに、「何回」は容器として見えないから。(結局、瀬戸智子さんが言っていることと同じことを私は言っているのかもしれません)

 もちろん、実際にトランプ方式で考えた子どもがいたとしたら、まったくもってそれは正解であり、そもそも 6×4 が「絶対に間違い」とは言えないというのはとにかく確かです。

 しかし、少なくとも遠山啓が 6×4 にバツをつけた教師をあんなふうに頭ごなしに批判するのはおかしいと思う…って本人もういないし、今さらの話なんですが。1972年の「かけ算の順序」論争に対する3つの観点のうちの1つとして、遠山啓は「テストは教育の手段か目的か」という項目をあげていますが、「手段」であるからこそ先生はバツをつけたのでしょう。たとえば入試問題のようなものであれば、まずバツにならないと思います(逆に、これをバツにしたい学校があれば、それはそれでアリだと思う。その学校の方針なのだから)。入試問題ではなくとも、たとえばなんらかの指針にするための大規模なテストであれば、こういうところでバツをつけることはまずないのではないでしょうか。(どうなんだろうか?)

(つづく)
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