TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 「愛」と「老い」 | main | 無根拠のテーゼ >>

ものを一元的にみるということ

 柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』を図書館で立ち読みしてきました(図書館で立ち読みっていうのもへんかな)。

 般若心教の現代詩訳です。科学的「心訳」という言い方をされることもありますが、「心訳」というのもよくわからない言葉なので、とりあえず「般若心教を原典にした生命科学者・柳澤桂子の世界観を詩的な言葉で綴った短文」と考えるといいかな、と思いました。
 印象に残ったのは、あとがきかどこかで書いてあった、「ものを一元的に見る」という態度でした。いろいろな物や私やあなたの存在を、原子の密度の濃淡でとらえようとする姿勢です。

 なるほど、1次元、2次元、3次元、4次元、5次元、……ではなく、一元的、二元的という視点であまり考えたことがありませんでした。いや、ある意味、ずっと考えてきたわけですが、一元、二元という言葉をあてていませんでした。

 私もあなたもない世界が一元的、私とあなた(あるいは私と対象物)で構成されるのが二元的な世界ということなのかな。

 一元的にものを見ると、私もあなたもない。

 しかし、それは確かに存在している。

 なるほど。

 そういえば、原子の密度の濃淡の話は、「わたしの存在」で書いた、MOさんの量子力学の話に近いです。しかしあのとき私が感動した話には、「わたし」がありました。いま思い返すにつけ、あのときには「わたし」を構成している粒子が宇宙全体に広がっていて、私の姿形をなしている部分にいちばん密に存在しているとイメージしたのだと思います。あるいは、「密に」というイメージもなかったのかもしれない。「いちばん」という言葉をそれ以上突っ込んで考えようとしなかったのがミソだったかもしれません。いずれにしろ、このイメージの中に「あなた」はなかったし、「わたし」の粒子と「あなた」の粒子の交錯のイメージもありませんでした。かといって、「わたし」の粒子と「あなた」の粒子が同じものであるという発想もありませんでした。自分のことしか考えていなかたってことか(^^;。

 よくよく考えてみれば、粒子や原子に「わたし」があると考えるのは確かにヘンです。

 ただ、粒子や原子で考えていくと、それらの密度の濃淡はなぜできるのだろう?という疑問がわいてくるし、まったく粒子が存在しない部分はあるのか、そこが何かで囲われると「空」なのか、密度が濃くなったときに粒子どうしが結びついて、ある部分を境目として新たな「1」になったりしないのか、その境目が動いていったりしないのか、などなど、疑問は尽きないのでした。
未分類 | permalink
  

サイト内検索