<気象学者>江守正多さんの文章
江守正多『地球温暖化の予測は「正しい」か?』(化学同人/2008年)を読みました。いや、読んだのは第3章までで、もういいかな・・・と思って第4章以降はぱらぱらとページをめくっただけです。それにしても“正しさが多い”という名前は印象的だ。
読みやすく、誠意も感じられ、気象学の不確かさへの謙虚さもあり、そのときどきで最大限の努力をして結果を出そう(研究者として仕事をしよう)という真摯さもあり、クセのない“正統派ハンサム”の文章で好感が持てるのですが、いまいちパンチに欠けるのはなぜだろう?と思いながら読み進んでいました。
やはりどうしたって本としては「懐疑論」のほうが面白いのかもしれないなぁ・・・と思ってみたり、IPCCに関わった人としての責任感が遠慮がちな文章を生んでいるのかなぁ・・・と思ってみたり、たぶん若い方だろうから、赤祖父俊一さんのような厚みというか熟成された熱さというか、骨太さのようなものを求めるのは酷かもしれないなぁ・・・とも思ってみたり。
しかし。
あとがきを読んで、あちゃーと思いました。
そういう人の文章を読むと、書かれてある内容よりも、著者自身にへんな興味が向いてしまいます。宮台真司『日本の難点』しかり。年齢を見てみたら、江守正多さんは1970年生まれとのこと。赤祖父さんよりも40歳下。やはり比べるのは酷すぎるか。
そういえば小飼弾さんが人文科学者がダメな理由がわかる−書評−日本を変える「知」において、「研究対象に対する畏敬の念の有無」について書いておられましたっけ。これを読んで、なるほど私が感じていた一部の社会学者の“イタさ”(*)はそういう言葉で言えばいいのかと納得したのですが-----宮台真司が畏敬の念をもっているのは社会学の研究対象ではなく、ルーマンやパーソンズなど自分が影響を受けた「社会学者」と、東大や霞が関の「利他的なスゴイ奴」なのだと思う---、江守正多さんには自然科学者らしく「気象学の研究対象に対する畏敬の念」はあると感じられるものの、それだけではだめなのだということを、しみじみ感じさせられる1冊でした。(いや、半分しか読んでいないのだが・・・)
* ちなみに、小飼弾さんの「人が自然の一部である以上」という前提は、もっと慎重に考えたいと私は思いました。“人文学的な仮説”だとしても。「自然」という言葉はそんなに簡単に扱えないと思うし、人文学者はそこから出発していないかもしれない。
読みやすく、誠意も感じられ、気象学の不確かさへの謙虚さもあり、そのときどきで最大限の努力をして結果を出そう(研究者として仕事をしよう)という真摯さもあり、クセのない“正統派ハンサム”の文章で好感が持てるのですが、いまいちパンチに欠けるのはなぜだろう?と思いながら読み進んでいました。
やはりどうしたって本としては「懐疑論」のほうが面白いのかもしれないなぁ・・・と思ってみたり、IPCCに関わった人としての責任感が遠慮がちな文章を生んでいるのかなぁ・・・と思ってみたり、たぶん若い方だろうから、赤祖父俊一さんのような厚みというか熟成された熱さというか、骨太さのようなものを求めるのは酷かもしれないなぁ・・・とも思ってみたり。
しかし。
あとがきを読んで、あちゃーと思いました。
・・・、僕たちは人類が文明の選択をする瞬間を目の当たりにしているのではないでしょうか。どこから突っ込みを入れたらいいのかわからないこの文章を書けてしまう若さに、ある意味驚き、ある意味納得しました。未だ研究対象に対してよりも、自分自身(研究者としてのアイデンティティ)に対する興味が勝っているのだ、この人。
じつはこう考えると僕はとても元気が出ます。自分が生きているうえでの役割を与えられた感じがしてきます。世界を変革するべき充分な理由があって、自分は自分の立場からその変革にコミットしているという感覚。そういうと旧来の左翼に似ている感じもしますが、その感覚自体が悪いことだとは思いません。誤解を恐れずにいえば、地球温暖化という物語は、閉塞した現代社会の中に久々に出現した、マルクス主義以来の「大きな物語」なのかもしれません。
そういう人の文章を読むと、書かれてある内容よりも、著者自身にへんな興味が向いてしまいます。宮台真司『日本の難点』しかり。年齢を見てみたら、江守正多さんは1970年生まれとのこと。赤祖父さんよりも40歳下。やはり比べるのは酷すぎるか。
そういえば小飼弾さんが人文科学者がダメな理由がわかる−書評−日本を変える「知」において、「研究対象に対する畏敬の念の有無」について書いておられましたっけ。これを読んで、なるほど私が感じていた一部の社会学者の“イタさ”(*)はそういう言葉で言えばいいのかと納得したのですが-----宮台真司が畏敬の念をもっているのは社会学の研究対象ではなく、ルーマンやパーソンズなど自分が影響を受けた「社会学者」と、東大や霞が関の「利他的なスゴイ奴」なのだと思う---、江守正多さんには自然科学者らしく「気象学の研究対象に対する畏敬の念」はあると感じられるものの、それだけではだめなのだということを、しみじみ感じさせられる1冊でした。(いや、半分しか読んでいないのだが・・・)
* ちなみに、小飼弾さんの「人が自然の一部である以上」という前提は、もっと慎重に考えたいと私は思いました。“人文学的な仮説”だとしても。「自然」という言葉はそんなに簡単に扱えないと思うし、人文学者はそこから出発していないかもしれない。