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「反体制」じゃなくなったエコ

 むかし、エコは、もっとヒッピーだったのだと思う。エコロジー=生態学という本来の意味より少し進んでいたとしても、リサイクルや省エネ家電と結びつく前の頃。現代文明を否定する態度といえるのかもしれないし、自然を愛する態度といえるのかもしれない。

 むかし、エコは、反戦運動や反核運動や反原発運動にどこか通じるものがあったのだと思う。エコがそうだったというより、反[  ]運動に関わる人の根底にいつもエコがあったのかもしれない。

 しかし、エコは、反戦運動や反核運動のように、反[  ]運動という言い方ができない。ピンポイントでいけば反[農薬汚染]、反[捕鯨]など、少し広げると反[自然破壊]、反[過剰消費]になるのかもしれないが、そうやってどんどん広げていくと、反[現代文明]を経て、反[現代人の活動全般]となってしまう。

 エコは難しい。戦う相手がわからない。守ろうとする相手が大きすぎる。1992年のテレビドラマ『地球をダメにする50のかんたんな方法』の中で、原ひさ子演じる寡黙なおばあさんが、嵐の中で「地球を守ろうなんて傲慢だ」とつぶやく場面がある。そして、(ネタばれになるので白文字→)「動物として、鳥葬にしてください」というメモを残して他界する。

 エコは、反[人間の自然に対するエゴイズム]ではあっても、反[ヒューマニズム]ではないはず。となると、エコロジーとヒューマニズムの関係は一体どういうものになるのだろう。ヒューマンは、自然の中で一体どんな位置づけになるのか。地球温暖化を防止したいのは、地球にやさしくしたり地球を守るためではなく、人間の生活を守るためだ。大切にしたいのは自然そのものではなく、人間の役に立つ自然、人間を心地よくさせる自然だ。そもそも環境問題の「環境」とは、人間をとりまく場としての外的状況という意味ではないのだろうか。

 あるいは、人間も自然の一部とみなす生き方であるか。

 エコは、反[  ]のかっこの中に何を入れても、そこに自分が入ってしまう。完全にかっこの外に出るのはとても難しい。

 ならばいっそ、全員をかっこの中に入れてしまえばいいのかもしれない。それが、反[CO2]だったのかもしれない。CO2は、まず何よりも自分の呼気に含まれている。そして、生活するとなんらかの形で発生に関わってしまう。反[フロンガス]ならば、フロンガスを使っているスプレーを使うことをやめればよいような気がした。反[酸性雨]だと話が遠すぎて行動の起こしようがない。しかし、反[CO2]だと、いろいろな形に読み替えることができる。

 だから、いまのエコには思想がない。「私、反原発運動やっているの」という言葉をきいたときにひるむ感じがエコにはない。いや、実際に「私、エコにかかわる運動をやっているの」ときくと多少ひるむかもしれないが、ひるみの意味が違う。

 だから、公的機関の事業に「エコ」という言葉があっても、企業のテレビCMで「エコ」という言葉が連呼されても、もはや違和感を感じない。

 思いは2つ。

 エコは、「体制」にとりこまれてしまったということ。

 エコは、反[  ]で表せる行動ではないのだろうということ。

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