TETRA'S MATH

数学と数学教育
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0と1にまつわるとりとめのない曖昧な思考

 本日、常体にて。

 ゆうべふとんの中で、ふと、1ってすごいなと思った。0の発見・発明は確かにすごかったかもしれない。しかし、1もすごい。いや、そもそも、0と1を対立させて考えることがおかしいのかもしれない。

 古代インドの宇宙観から、なぜか雪で引用させていただいた、松岡正剛さんの「そのとたん、すべてが良寛に舞いこみ、そこから立ち上がって、雪のように舞い散ってくれたのだった。」という言葉を思い出していた。

 身体感覚として。

 すべてが舞いこみ、そこから立ち上がった「そこ」は、「1」ではないかと思った。

 「0」かもしれない、とも一瞬思った。消失点のような、不動点のような。でも、それはむしろ“雪のように舞い散った”彼方にあるのではなかろうか。

 涅槃寂静のサイズのことも思い出していた。そういえばあのとき、◆のところに「一」をおかなかった。

 河本英夫『オートポイエーシス---第三世代システム』の前書きに、こんなことが書いてある。
 オートポイエーシスが議論の焦点の一つとしているものに、「境界」がある。自己の境界はどこにあるのかと問うさいの境界である。口の中に雑居する六十億個の細菌は、自己の内なのか外なのか。腸の中に住む百億個の雑菌は自己の内なのか外なのか。酸素を吸着する肺細胞の一歩手前は、内なのか外なのか。いったいどのようにして自己の境界を考えたらよいのか。
 ひとりの私の中に、気が遠くなるような「1」がひしめきあっている。六十億個にしろ百億個にしろ、数えられるということは、「1」で構成されているということ。

 これにウィルスが入ってきたら、さらに話はややこしい。生き物を「細胞で構成されるもの」と定義するのなら、細胞をもたないウィルスは生き物ではない。なのに遺伝物質をもち、他人の細胞で増殖していく。自分だけでは生きられないから、ウィルスは「1」にはなれない。でも、「1」にもならないものが(ならないから?)増殖を続けていく。

 自分が妊娠したとき、生まれてくる子が女の子だということは胎児の段階でわかっていた。ってことは、私のおなかの中の子どもの中にすでに卵子があるってこと? 卵子も精子もそれぞれ「1」であり、受精して新たな「1」になる。なりたての新たな「1」が、次の「1」を内包している不思議。その「1」は、次の「1」への可能性(情報)を有している。

 りんご1個を8等分に切り、それの約3分の1をかじりとって口に入れた私。口の中にある(約24分の1)個のりんごはまだ私ではない。まずければすぐに吐き出せる。そうして噛み砕き、すりつぶす。食道に入るときに境目を超えるのか? それとも胃のあたり? そうしてまないたの上に残った芯とりんごの種。種は何個ある? 

 0であることは、何もないのではなく、ある場所に何もないということなのだということを、このあいだ考えたばかり。場所があるということは、壁なり皿なり囲いなり、場所をつくる境目があるということ。その境目の内側に何もないのが0ということ。1が1になれるのは、あなたと私を隔てる確固たる境目があるということ。境目ができたときに、同時発生的に1ができる。1は、境目の内側がきっちり<私>で満たされているということか。いや、少し違う気がする。そもそも、0と1とでは、境目とのつきあい方が違う気がする。

 1は、ものの数え始めであり、単位でもある。そして、完成体でもある。ない、ある、のあるである。だれかに掛かって、すべてを自分にしてしまう0もすごいけれど、だれかに掛かって、その「だれか」になる1はもっとすごい。いや、0にしろ、1にしろ、答えが出たときには新しい0であり、新しいもとの大きさの数なのかもしれない。だれかに掛かって、自分の大きさの答えを出す0。だれかに掛かって、相手の大きさの答えを出す1。そう考えると、1は何を考えているのかわからなくて、ちょっと身構えてしまう。


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