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数学と数学教育
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科学への信頼の中身

 戦後の教育運動の社会的、思想的背景において、「戦後の日本でなぜ系統主義が支配的になっていったか」(汐見先生分析)の3点め“普遍主義”の話を書きましたが、この次の4点め“科学主義”の話をのぞいておきたいと思います。

 1950年代の末あたりから、科学や技術は、生活改善・合理化のシンボルとして、日常生活のレベルまで浸透していきました。またスプートニク・ショックの影響もあって、各国はこぞって科学技術大国を目指しはじめ、並行して進んだテレビや冷蔵庫など生活製品の電化の進展もあり、1960年代には「科学」という語は、生活の向上や豊かさをもっとも明確に象徴する位置にまで上っていきました。

 「科学的」であることは「迷信ではない」という意味合いを超えて、「真理」や「しあわせ」を代弁するまでにいたったわけですが、このような科学に対する過剰なまでの信頼は、「正しいものは合理的であって真理は一つである」という考え方につながり、教えの「正しい」系統は一つであるという信念を受け入れる土壌となった、と汐見先生は分析しておられます。

 そして、1970年以降、公害の広がりや環境問題の深刻化を通じて、科学や技術への素朴な信頼性が減少していく…というきのうの話へとつながります。

 さて、藤垣裕子准教授が分析するように、昨今の温暖化懐疑論ブームが「ほんとうの科学と“一般市民”が抱く科学のイメージとのズレ」を背景にもつのであれば、先の汐見先生の分析とどう考え合わせればいいのでしょうか?

 もし、汐見先生の分析も藤垣さんの分析もあたっているとしたら、“一般市民”にとって、「科学」に対するイメージはあいかわらず「厳密で客観的で常に正しく、確実な答えを出せる」ものであることにかわりはないけれど(という信頼は消えていないけれど)、「科学技術ってすばらしい! 万能だ!」という態度であったものが、「科学技術が生み出すのはいいことばかりではないらしい」ということに気づきはじめ、「科学技術は私をしあわせにしてくる」ということに対する期待感が薄まっていった、と考えれば辻褄があいそうです。

 というふうに考えるとき、前提として、“一般市民”にとっては昔もいまも「科学(ほぼイコール科学技術)」は中身を知りえないブラックボックスである、ということがいえそうな気がします。“科学する”のは専門家であり、われわれはその恩恵を被る立場、ときに被害を被る立場である。“科学”は私たちの外にある。信頼するときも、期待が薄まるときも。

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