TETRA'S MATH

数学と数学教育
<< 民間教育団体の啓蒙主義的発想(60年代) | main | 人権概念の相対化という出来事 >>

考えを対象化する、相対化すること

 昨年末、亀井喜久男先生の「約数集合構造」の論稿が読みたくて、明治図書の雑誌『数学教育』(2008年 12月号)を買いました。

 この号の特集が“グループ学習で「学び合う」力を育てる”というもので、巻頭で小寺隆幸先生が提言を書かれており、中学校でのいくつかの実践例が示されています。

 小寺先生いわく、「今ここで提起したいのは、子ども自身の内的思考を外に開くために、身近な他者の存在が重要だということである」。

 頭の中の考えをたどたどしくても言葉にすることで、対象化できる。様々な考えがもやもと漂っているときに、誰かに話すことで脈絡が見えてくることがある。また逆に、すっかりわかったつもりでいたのに言葉にしようとしたらわかっていなかったことに気づくこともある。何がわかっていて、何がわからないのかが、子ども自身にとらえ返されていく。

 学校の面白さって、結局、ここにあるんじゃないでしょうか? 塾や家庭ではなかなかできないこと。

 たとえば、教科書の内容の理解に苦しむ子どもが、小2にして『数学ガール』をさらっと読んでしまう子どもをハッとさせることは十分に考えられると思うし、教科書の内容のはるか先までやっている子どもが、自分の考えを説明しようとしたときに、いかにわかっていなかったに気づくこともあると思います。さらに、小2にして『数学ガール』をさらっと読んでしまう子どもの考え方をきいて、教科書の内容をはるか先までやっている子どもが「習ったのと違う」とカルチャーショックを受けることもあるだろうし、逆に、それはおかしいと反論したときに、傍観していた教科書の内容の理解に苦しむ子どもがそれまでわからなかったことをストンと理解する、ということだってあると思います。

 まず、伝えようとすること。そして、人の考えをきくこと。そのことによって、自分の考えが対象化され、相対化される。教師は、そのための「安心して議論をできる場」をつくってあげるのが何よりの仕事ではないかと勝手に考えているのでした。まあ、私は教師ではないので何でも言えちゃうのですが。(たとえ「言うは易しだよ」と切り替えされても返す言葉はないのです、はい)
 
 なお、雑誌『数学教育』の実践報告の中で、とある中学生が、「色々な考え方が出てきて、なるほどなあ……と思った。結局、私がやっていたことと同じことなのですね」という感想を書いていて、なるほどなぁと思いました。

 学び合いは一斉授業でもできるのだと思いますが、グループ学習にするとワンクッション入ってまた別の展開が期待されるのでしょうね。グループ学習にしたほうが一斉授業で発言できない子どもが発言できる可能性は高まるし、グループでの話し合いをまとめて発表するという作業が新たな面白さを生むこともあるのかもしれません。でも、必ずしも全員に発言させなくちゃいけない(全員が発言することに意義がある)と考えなくてもいいのだと思います。発言を促すことはしても。黙ってきいている子どもの中で、実はすごいことが起きているかもしれない。

 10年以上前、家庭教師をフリーでやり始めた頃、一応アピールのための文章を作ったのですが(全然役に立たなかったけど)、その中に「集団学習には限界がある」というフレーズを入れていました。半分本気、半分営業トークだったと思います。確かに家庭教師は面白かった。何かをなしえたと思える。でも、家庭教師を始めた頃の自分は、学校だからできることはなんなのかをあまり考えていませんでした。結局勉強というものを「教える−教わる」という構図の中だけでとらえていたように思います。

 さて、この対象化・相対化については、汐見先生の普遍主義の分析とあわせて読むと、面白そうですよ。

『時代は動く!どうする算数・数学教育』 | permalink
  

サイト内検索