TETRA'S MATH

数学と数学教育
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戦後の教育運動の社会的、思想的背景

『時代は動く!どうする算数・数学教育』
 汐見稔幸/井上正允/小寺隆幸【編】
 (国土社、1999年)

  機/学教育とその理念

   5 「科学主義」「系統主義」の時代背景と
            それが見落としてきたもの
   ―― 数教協の1950年代、1960年代を手がかりに ――
                    (汐見稔幸)

を読んでいます。順番でいくとこのあと「遠山啓の現代化」の話になるのですが、いったんとばして、「4 産業主義・普遍主義・啓蒙主義・科学主義・系統主義」をみてみたいと思います。ここがね、とってもわかりやすく整理されていて、面白かったのです。

 なぜ、1950年代から1960年代にかけて、日本の数学教育において系統主義が支配的になっていったか? ということを、汐見先生は5つの視点からまとめられています。

 まず1つめ。「これは,外堀的な問題であるが,」という書き出しで始まるのですが、戦後の日本の教育運動がアメリカの日本およびアジア支配との緊張関係のもとで展開されたということが、結果として系統学習を推し進めたのではないかという話です。

 1950年代の教育実践は反戦平和を基調としていました。しかし、第二次教育使節段の報告後、アメリカの単独講和の強要や池田・ロバートソン会談のあたりからアメリカの路線転換が明確になり、反戦平和路線と厳しく対立するようになりました。

 当然、アメリカの教育政策の押しつけに対する厳しい反発が始まります。そして、アメリカが日本に持ち込もうとしたのがプラグマティズムであり、教育的には経験主義であったため、とくに左翼革新陣営がこの哲学と教育路線に激しく反発した、という流れです。

 そんなこんなで、イデオロギー的な立場から、経験主義やプラグマティズムが忌避され、それに対置する哲学、教育哲学が称揚されたというのが、系統主義が急速に支配的になっていった背後にある重要な社会的・思想的事情と言ってよい、と汐見先生は書かれています。

1960年代に教育の現代化を提唱し,経験主義をあらためて批判し続けた中心にいたのも,この時期にプラグマティズム批判を展開した正統派のマルクス主義者たちであった。

 以上が1点めの要約です。

 ここでわく自分の素朴な疑問。「対置する教育哲学が称揚された」というのはとても自然なことに思えるし、経験主義と系統主義が一応は対置するものであることも納得ですが、路線転換したアメリカが持ち込んだのがプラグマティズムであったことにどういう必然性があったのか、どういう歴史的な意味があったのかをもっと知りたいと思いました。

 もしアメリカが持ち込んだのが別の思想であったのなら、それに対置する別の思想が日本では支配的になっていったのだろうか?

 すごく極端なことをいうと、アメリカが系統主義を持ち込むことがあり得た場合、日本では経験主義が支配的になっていくということがあり得ただろうか?(ちょっと考えにくいけど)

 左翼革新陣営は、極端な場合は「経験主義はわが国の民を愚民化するものであり植民地主義である」との批判さえ展開したそうですが、それを裏返した「系統主義はわが国の民を賢くする」という思想がもともとあったのか。もし、アメリカが経験主義を持ち込んでこなくても、“系統主義がわが国の民を賢くする”という発想は起こり得たろうか?

 あるいは、経験主義と対置する教育哲学は他にもあって、その中で系統主義が特に力をもったということなのだろうか。

 とにもかくにもまだ1点めだし、これは一応“外堀的”な問題なので、先を読み進んでみたいと思います。2点めは、「戦後、民間の教育運動に、教科の内容と関連する専門家、研究者、知識人が多く参加していた」ということがあげられています。


 研究者たちは戦後の日本の再建そのものに関心を持ち、教育の分野からそれを進めようとして、学問を国民のものにするとことに強い情熱を持っていました。

 そして、各学問分野の専門家が教育内容研究に参加するということは、その専門家が専門とする学問によって学校での教育内容も基礎づけられていくということになり、学校教育のなかで教科をどう定めるかと考えるときに、学問枠をモデルとすることが自明視されることになります。

 また、必然的に、それぞれの学問をどう系統立てて教えるかということが各民間教育団体の研究関心の中心になっていきます。数教協もまさにその1つだと思います。

 その結果、経験主義的な教科枠、たとえば総合教科などは十分な議論対象にはならなかった、と汐見先生は分析しています。そんなことはない、遠山先生は総合学習の重要性を謳っていたと反論したくなる方もおられることでしょうが、それはとりあえずおいておきます。

 ちなみに、汐見先生のこの話の中には、教育科学研究会、歴史教育者協議会、数学教育協議会、科学教育協議会、「鎌倉アカデミア」などが出てきます。

 実は先日初めて国土社の『教育』を購入したのですが(2008年10月号)、これって教育科学研究会の雑誌だったんですね。なお、このブログでは紹介しませんでしたが、汐見先生は系統主義が抱える問題点を、無着成恭の『続やまびこ学校』の中の作文をとりあげて示しておられます。

 戦後の日本においてなぜ系統主義が支配的になっていったか(汐見先生分析)の3点めは、「普遍主義 ―― 歴史は普遍に向かって動くという信念 ―― 」の話です。私がいちばん興味があるところです。

 西欧の「人権」思想の浸潤、スプートニク・ショック、そしてマルクス主義によって、「人権や科学(的真理)は、歴史的・地域的制約を超えた普遍的な価値であり、歴史は一定の法則性をもって動く流れである」というのが戦後思想の共通感覚であったと汐見先生は書いておられます。

社会主義に対する期待もあって,歴史はある方向に動くべきであるし,そのことは「科学」によって実証されるという感覚が、現在とは比較にならないほど強かった。

 そして、この普遍主義的な科学観が教育に翻訳されるときに系統主義が生まれやすくなるのは道理であった、と分析しておられます。(ここは、いずれまた丁寧に考えたいところです)

 さて、汐見先生分析の時代から少しあとのことを考えてみます。上記のような“戦後思想の共通感覚”は、後にポストモダンの思想などによって相対化されていくわけですが、1960年代に登場した構造主義の背景(というかルーツ)に数学ががっぷり関わっているというのは本当に興味深いです。遠山啓は微分積分の位置づけに近代数学と現代数学の対立点を見ていましたが、数学教育の方法論の思想的背景としてはマルクス主義と構造主義のハザマにいたのではなかろうかと勝手に推測しています。そして、遠山啓の「量の理論」は、ヘーゲルの思想に直結しているのだろうととこれまた勝手に想像しているのでした。

 山下正男『思想の中の数学的構造』(ちくま学芸文庫)によると、ヘーゲルの歴史哲学は、ライプニッツの微分積分をモデルにしたものではあるけれど、比喩的な意味で解析学を使ったにすぎず、それはヘーゲルが数学にあまり強くなかったという個人的事情によるもの(+α)だろうとしています。

 思えば、古代ギリシアはもちろん、近世初頭のデカルトやライプニッツの頃までは、哲学と自然科学は一体でした。しかし、近世の科学革命以後、自然科学が独走し始め、哲学は自然科学から独立して、近代になると文科と理科の分離が起こります。

 レヴィ=ストロースの何がえらかったって、ものすごーく久しぶりに数学の言語が人文系の学問にも十分適用可能だということを示したことであり、ヨーロッパの正統的な流れにたちかえったことだったのですが、そんなレヴィ=ストロースやピアジェといった優れた人たちが、いったんは人文科学や社会科学の中に数学的構造の存在を発見しながら、そうした方法を推し進めないでむしろ後退するようになったのも、近代になって生じた文科と理科の分離が要因ではないかといったことを山下正男さんは書いておられます。 

 という話をきいて、私は半分納得、半分反省でした。というのも、以前、ラカンの精神分析に違和感を感じたことがあり、それは問題設定が恣意的だということを見抜けたのかもしれないという思いが半分、精神分析に数学をとりこむのは比喩にすぎないという先入観が半分だったと感じたからです。また、ソーカル事件に対する見方も少し変わりました。

 マルクス主義(的方法)は、日本資本主義の発達の分析や古代社会、封建社会、近代社会の分析に生かされ、数々の優れた業績を生みだしました。全盛期を知らない私でも、マルクス主義が人を動かし、社会を動かし、時代を動かしたことは感じられます。しかし、構造主義はどうであったか。山下正男さんのこの本は1980年に書かれたものですが、構造主義がマルクス主義に劣っていると言いたいのではなく、構造主義的分析の前進に少しでも役立てば……という思いでこの本を書かれたようです。(ただし、2006年の文庫版あとがきでは、「本書は構造主義の意味を認めながらもその不徹底さを厳しく批判したもの」と書いておられます。)

 ヘーゲルは数学にあまり強くなかったかもしれないけれど、遠山啓は数学に強い。近代数学のみならず、現代数学もよく知っている。だから、近代化がやるべくしてやらなかったことを現代化の立場から補填するものとして「量の体系」を作った。そして、現代数学における“構造”がいかに重要なものであるかをよくわかったうえで、その限界にも目を向けていた。だからこそ、微分積分をとびこえて抽象数学に結びつくような初等数学教育の流れをとめたかったのだと、ようやくわかってきました。

 戦後の日本においてなぜ系統主義が支配的になっていったか(汐見先生分析)の5つの視点のうちの3つをみてきました。なお、4点めは「科学主義」の話、5点めは「産業主義」の話になっています。

 この科学主義、産業主義の話は、前節の「遠山啓の現代化」の話と関わるのですが、汐見先生は、小倉金之助と遠山啓を対比させるような書き方をしておられて、どういう流れなのかよくわからないので、現在、探索中&考え中です。

 ついでに、緑表紙を作った塩野直道の考えも知っておいたほうがよさそうだと思い、『伝説の算数教科書<緑表紙> ―― 塩野直道の考えたこと――』(松宮哲夫著/岩波書店/2007年)を読み始めたところです。私、このあいだまで知らなかったのですが、塩野直道って啓林館の取締役だったのですね。啓林館と数教協の確執はなんとなく肌で感じていたけれど……いろいろあるのねぇ。

 とにもかくにも、小倉金之助と遠山啓の関係が謎です。数学教育協議会の歴史の中に名前があるところをみると、関係者だったのは確かのようですが。初代委員長だったという話も(出典未確認)。私の頭の中で小倉金之助と遠山啓がつながらない。


〔2018年3月27日〕複数に分けて書いていた記事をひとつにまとめ、整理しました。

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