TETRA'S MATH

数学と数学教育
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ブラックボックスとはなんであったのか

 「関数とは何か」ということについて考えてみたくなったので、ちょっと立ち止まってみることにします。

 私が高校生の頃、同級生から「数学のなかでどの分野が好き?」ときかれたことがあり、ちょっと考えてから「関数」と答えたのを覚えています。友人は、いかにも数学が好きそうな人の答だねぇ……というような感想をもったようでしたが、私にとっての関数の楽しさは、3次関数や4次関数のグラフをかくことでした。見た目は同じような形をしている式が、自分の計算によって曲線になって現れ、数値や符号の違いでこうも形が違うのかと驚いたし、辻褄があうことも楽しかったのです。

 と同時に、ブラックボックスも当然わが家にありましたから、数教協が関数指導においてブラックボックスを何より大切にしていることも肌で感じていました。でも、それはそれ(ブラックボックス)、これはこれ(自分がグラフを好きなこと)だったのだと思います。三角関数もそれなりに好きでしたが、ごく初期の段階だけで、計算が難しくなると面倒に感じた覚えがあります。指数関数や対数関数はあまり好きではありませんでした。という傾向は、何かを物語っているような気がします。

 そんな私のグラフ好きとどれくらい関わりがある話なのかはわからないけれど、遠山啓の『量とはなにか−供戮砲茲襪函関数・イコール・グラフという“浅薄な”傾向を生み出したのは、フェリックス・クライン(の改造プログラム)のせいらしいのです。
(前略)
このような制限があったために,クラインの改造プログラムはいろいろな点で限界をもつようになった。たとえば,関数概念,すなわち,グラフという浅薄な傾向を生みだし,グラフさえセッセとかかせれば関数概念は自然に養えるという考えを生み出した。
 (p.227)

 遠山啓の上記の引用部分は、「関数教育の現代化のために」という表題の文章中の一節です。そうして遠山啓は、関数のシェーマとして“暗箱(black box)”を採用しました。これは数学者よりは工学者が好んで用いるシェーマであるとして、ノイマンのオートマトン理論を例にあげています。

 遠山啓の述べる関数は、命題関数なども含めた広い意味での関数だったようです。ということと、ブラックボックスはよく似合います。

 が。それと小学校・中学校の(関数の一例としての)比例の授業は、どうリンクしているのでしょうか?

 遠山啓はクラインの改造プログラムについてこう言及しています。(『量とはなにか−供p.227/初出1964年)

クラインの関数が<数→数>の対応を与える狭い意味の関数であったために,彼の改造運動のスケールはせいぜい微分積分の改造や移動の幾何に留まり,数学教育の全域をおおうには至らなかったといえる。(中略)
クラインのこのような観点からは,20世紀の数学を正しくとらえることはとてもできないだろう。もし現代化の立場から関数の指導体系を組み立てようとすれば,クラインの立場に留まることはとうていできないはずである。

 最初にここを読んだとき、「おいっ」と突っ込みたくなりました。あんた微分積分を高校までの最高目標にするって言ったやん!って。

 私は、遠山啓が提唱した「数学教育の2本の柱」のうち、1本(連続量)についてはかなり実現したのではないかという認識でいます。比→比例という順序こそひっくり返せなかったけれど、小学校の「内包量」から始まって高校の微分積分をゴールとする流れはかなりきれいに整っているのではなかろうか。

 私自身、微分積分には憧れがありました。高校になってやっと微積の授業が始まったときにはうれしかった。お約束の「分かった積もりで微かに分かる」で始まる授業でした。そして高校教師だった父(非数教協会員)から、「すべてはここにたどりつくために組み立てられていたんだよ」というような話をききました。微分積分を楽しみにしていた私は、実はこの言葉をきいて意外に思い、微かにショックを受けました(だから覚えているのだと思う)。つながっているように思えなかったし、「所詮だれかの手中なのか」という落胆めいた感覚もあったのかもしれません。父としては、別に私をがっかりさせるために言った言葉ではなかったのでしょうが。(今となっては、むしろこの父の言葉に感謝しています)

 これと近い感覚を、大人になってからも感じることがしばしばありました。系統学習やトップダウン方式への抵抗感と言えるかもしれませんが、「俯瞰する数学教育への違和感」というのがいちばん近いです。じゃあ、系統学習はいらないのか、カリキュラム研究は必要ないのかというと、そうはいかないだろうとやっぱり思うわけで。だから、教科書研究やカリキュラム研究は十分にやったうえで、学校の先生たちは教室に1歩入ったらそれらをみんな忘れてしまっていいと思う。

 学校を出て大人になってからの数学が楽しいなぁと思うのは、その時々の興味で触れたつもりの数学が、ひょんなところでつながっていく感覚を味わえることです。数学なのだからつながっても不思議はないのですが、つながる道筋がすごく<自分のもの>に思える。偶然だけど必然。

 話をもとにもどすと、遠山啓が関数の“シェーマ”としてブラックボックス(暗箱)を採用したのは、ブラックボックスが次の2つの条件を満たしていたからでした。

1.関数のあらゆる意味の拡張に対しても適応できる。
2.生活のなかにしばしば現れて、だれにでもとらえやすい。

 関数とは何ぞやを一言でいうのは難しいけれど、とりあえず「対応」「写像」「変換」「操作」として捉えた場合(※)、これらの違いを捨象して共通点だけを抽出すると、残るものはなんなのか?と考えたときに、入力したものに一定の加工をほどこして出力させる“装置”としてのブラックボックスが浮き上がってきたということなのだと思います。1はそれでいいとして、2はどういうことかというと、遠山啓は次のような例をあげています。

・ジューサー(入:果物&電力 → 出:ジュース)
・センバン(入:回転のエネルギー&工作のハンドル&金属材料
        → 出:削った金属棒、削りクズ、音響、熱)
・ピアノ(入:キー → 出:音)
・切符の自動販売機(入:貨幣&ボタン → 出:切符) 
・会社(入:資金&労働力&材料 → 出:製品&利潤)
・生物の新陳代謝

 ちなみに、数教協のブラックボックスの図や本体にはfunctionの「f」の文字が書かれていることが多いと思います。当然の流れとして、遠山啓は早い段階(中学生くらい)でf( )という表記の仕方を導入するべきだと主張していました。

 たとえば、定義域と地域をそれぞれ楕円で示して、定義域の中の点から値域の中の点を矢印で結んだ写像の図では、肝心のfunctionの部分が現れていないので、fの部分を箱として“具体化”したのがブラックボックスということなのだと思います。

 さて、遠山啓の「クラインのこのような観点からは,20世紀の数学を正しくとらえることはとてもできないだろう」という記述を読んで、私が「おいっ」と突っ込みたくなったのは、遠山啓の「量の理論」の根本思想には、「数学教育が20世紀の数学に走り出すのを阻止したかったからではないか」という認識があったからでした。

 加えて、微分積分は現代数学と関わりが薄いという感覚もありましたし、「グラフでいいやん! どうして浅薄なの?」という素朴な疑問がわいたわけです。上記(※)のような関数の捉え方は、微分積分を最終ゴールと考えるにしては飛躍がある気がしたのです。比例水槽で比例を導入して、ブラックボックスで関数を導入?? ブラックボックスって、なんだか連続量を扱う装置っぽくないんですが……と。

 しかし最近、『量とはなにか−供戮慮緘召読めるようになってきて、そのうえで『量とはなにか−機戮慮緘召鯑匹爐函以前には見えなかったものが見えてきたように思うのです。

 遠山啓は、「構造か量か」で量を選んだのではなかった。量をとびこして構造へと向かうのを阻止したかった。現代数学において構造は大切な概念であるが、全能ではない。数学史の一時期に創りだされたものであり、時代の刻印をおよびている以上、限界をもっている。なぜ限界があるか。それは、静的だから。
構造のはじまりをどこにおくかにはいろいろの見解がありうる。E.T.ベルのように,それをガウスの『整数論研究』におく人もある。しかし,それよりもカントルの“集合論”におくほうがより適切であろうと思われる。(中略)
カントルの集合はきわめて一般的なものであって、ほとんど制限らしいものをもってはいないが、ただ一つだけ重要な条件にしたがわねばならない。それは“閉じている”(closed)という条件である。それは、あたかも出入り口のとびらを閉じた部屋のなかにいる人の集合のように,古い要素が,その集合からでていったり,新しい要素がはいってきたりすることは許されないのである。
 (『量とはなにか−機p.254−255)

 このあと遠山啓は、サイバネティクスのウィーナーの名前を出してきています。フォン・ノイマンも使っていたというブラックボックスを関数の“シェーマ”として採用しつつ、ほぼ同じ時期に“動的体系”という言葉も出してきているのです。どちらも1960年代の話。

 まだブルバキは衰退していなかったと思うし、アメリカでは数学教育の現代化が始まっていたころではないでしょうか。そう考えるとやっぱり遠山啓ってすごいと思うのですが、問題はそれが日本の数学教育(特に小、中学校)に何をもたらしたのか、ということであり。

 そんなこんなで遠山啓の採用した関数の“シェーマ”としてのブラックボックスは、会員の先生たちによって広まっていき、各地で進化・改造されていったのだろうと思います。

 私の子どもの頃の記憶にも、改良したブラックボックスについて語りあうサークル仲間の先生たちの姿がうっすら残っています。表向きにカードを入れたとき、いかに中でうまくひっくり返って裏側が出てくるかが重要課題であったようです。当時は木製だったと記憶しているのですが、大人になってから、組み立て式の紙製のブラックボックスも見たことがあります。

 同様に、タイルや比例水槽も進化・改造を続けてきたのでしょう。エコロジーの視点からか、ペットボトルの比例水槽や牛乳パックのブラックボックスもあるとかないとか。

 遠山啓が失敗したな……と私が思うのは、“シェーマ”という言葉に頼りすぎたことです。先生たちにとって、それは「教具」でしかない。実際に子どもたちは教具をとても喜ぶし、興味を持つし、集中する。だから、教具は大事だと思うのです。で、教具は教具で終わればいい。しかし、“シェーマ”という言葉があると、教具が特別なものに思えてくる。遠山啓は内包量のシェーマとして“混みぐあい”や“濃さ”を提案していますし、「2×3のシェーマとしては,“1箱になにかが2つずつはいっているものの3個分”としたほうがわかりやすい」というような言葉の使い方もしているので、遠山啓のいうシェーマは単なる道具ではないと思うのです。また、単なる道具にもなれなかった。

 さらに、比例水槽の場合は、タイルやブラックボックスとはまた別の問題を抱えているように思います。理科の先生たちの目に、比例水槽はどううつっているのでしょう? 遠山啓が最初に提案した比例水槽は、水槽を1つの金網で仕切った簡単なものでした。しかし、金網で仕切ると左右の分け目がよく見えないためか、水が入る部分を分割した水槽も登場しているようです。ついでにいうと、1つの水槽に等間隔に仕切りを入れるレールをつければ平均の教具として使えるので、網状ではない水をさえぎる仕切りもあったかと思います。うちにもありました。ペットボトルの下のほうに穴をあけて連結させた比例水槽(平均水槽?)を見たのは5年くらい前でした。こうふうになってくると、もう恣意的な装置だし、水圧の実験に思えてきます。

 その“シェーマ”という言葉がピアジェ発らしいということはだいぶ前に知ったものの、当時はピアジェと構造主義の関係を知らなかったので、ピンとこなかったのです。そして、昨年の秋に論理学の勉強を経て、ピアジェと構造主義がつながったあとでは、遠山啓の次の言葉も理解しやすくなってきました。(『量とはなにか−機p.254)

構造は概念の建築物であり,ある意味では思考のパターンである。このようなものは,ある意味ではシェーマ(図式)とも呼ばれる。それは構造の理解を容易にするような,なんらかの感性的な思考のモデルであるといってよい。


 遠山啓は、数学としての「構造」に限界を感じていながら、数学教育の方法論として、「構造主義のようなもの」につかまっていたのではなかろうか?……そんなことも思うのです。

 ところで、functioという術語が初めて数学史に登場したのは、ライプニッツの論文においてだったそうですが、f(x)という記号が使われ始めたのはオイラーの頃からなのだそうです。

 ちなみに、江戸時代の和算はきわめて高度の発達をとげて、同時代のヨーロッパの数学の水準にせまるものがあったそうですが、関数という考えはなかったということになっているそうです。いっさいの関数が研究の対象にならなかったということではなく、無数の関数を“関数”という一般概念に包括して考えることをしていなかった、ということのようです。(『量とはなにか−供p.239)

 そもそも関数とはなんであるか。それを一言で言い尽くすことは難しい。関数とはなにかを知りたかったら、関数とみなされ得るすべてのものを列挙して、それぞれの特徴を説明するしかないのかもしれません。

 しかし、すべての関数を列挙するのは不可能であり、無数の関数は“関数”という一般概念ができてはじめて包括することができるといえます。そのためには、多種多様の関数といわれるものから、微妙な違いを捨象して、共通点だけを浮かびあがらせなければなりません。そうして浮かび上がってきたものがブラックボックスということらしいのです。

 そう書いてみて気づいたこと。ブラックボックスって、関数の内包的表現なんだ。(←私の勝手な解釈)

 さらに、ブラックボックスには定義域と値域を示す楕円がないので、閉じた系の中での写像関係ではない関数(微分積分の中に出てくるような関数)に対しても有効です。

元来,よいシェーマを選ぶことはけっしてたんなる小手先の技術でできるものではなく,本質的な目的や意味にたちいってからでなくてはできないものである。
 そして大事なのは、先人の“シェーマ”を継承することではなく、本質的な目的や意味に立ち入ろうという姿勢だと思うのです。

 遠山啓はこうも書いています。「微分積分をむりやりに構造の中に押し込めないためには、微分積分における狭い意味の関数 ―― 変量の関数 ―― と現代数学における対応・写像・操作・変換としての広義の関数は、いちおうは独立のものとして指導したほうがよいのかもしれない」(『量とはなにか−機p.279から要約/1966年初出) 数学教育の中に微分積分をどのように位置づけるかという難問題の中には、近代数学と現代数学との本質的な対立が横たわっていると遠山啓は語っています。

 綿密な検証をしたわけではありませんが、1960年代の遠山啓の主張(微分積分の位置づけ)と、1970年代の遠山啓の主張(微分積分の位置づけ)は、微妙に変化しているように思います。時がたてば変化するのはあたりまえだけれど、日本における数学教育の現代化が1970年頃に始まったとするならば、その結果 ―― 失敗 ―― をふまえての変化と思いたくなるというもの。

 しかし、遠山啓は方向転換をすべきとは言っていません。われわれに必要なのは、これまでの方向を変えるのではなく、さらに発展させて、目的意識をいっそうはっきりさせることだと言っています。そして、数学教育の2本の柱を打ちたて、「連続量−微分積分、分離量−整数論」や「連続量−量の体系、分離量−水道方式」という対応のさせかたをしています。

 でも……

 ほんとにそれでよかったの?

 と、遠山先生にきいてみたい私です。



〔2018年3月19日:複数に分けて書いた記事をひとつにまとめ、大幅に整理・修正しました。〕
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