TETRA'S MATH

数学と数学教育
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私が思う「量の理論」の根本思想

 現在私は、遠山啓の論の根本思想を、次の1、2だと考えています。そして、遠山啓が学校教育から「量」を排除してはいけないと強く訴えた背景には、3があると思っています。

1.数学教育は、すべての子どものためにある。
  たった1人の落後者も出さない。

2.数学の研究対象の究極の根は客観的な世界のなかにある。
  それを、数学教育の出発点とする。

3.遠山啓は、20世紀の抽象代数学の威力をよく知っていた。
  そして、黒表紙の指導原理は微分積分をとびこして20世紀
  の抽象数学に結びつくものだと考えたからこそ、学校教育が
  その方向に走り出すのを阻止したかった。

 1、2、3について考えることは、「数学教育ってなんだろう?」ということを考えることにほかならないと思うのですが、私にとっては特に3が難しいです(1も2も難しいけど)。何しろ「20世紀の抽象代数学」をよく知らないので。だから、よく知っていそうな宮下先生にこのあたりの解釈をきいてみたいと思い、図説「数学教育」をあちこち開いて読んでいます。しかし、それぞれのページはシンプルなんだけど、ついクリックしてリンク先をまわるうちに、自分がどこにいるのかだんだんわからなくなって、迷路をぐるぐるまわっている気分になります。1冊の本をあちこち拾いよみするのとは違って、サイト内をあちこちめぐるときには、後者のほうが自分で情報を整理していく力が求められるようです。

 さて、数学教育とは何か?

 遠山啓は明確です。たとえば『量とはなにか−機戞p31)においては、「数学者には量の体系に反対の人が多い、それは無理からぬことだと思う」と述べたあと、こう語っています。
小学校の算数教育も,それにひきつづく中学校以上の数学教育も数学者をつくるために行われるのではない。数学者にならない子どもは落後者となっていいわけのものではない。算数と数学は子どもたちが,将来,自然科学や社会科学を学んでいくためのたいせつな基盤をつくってやるために教えるのである。
 一方、宮下先生の語る数学教育の意味は、現在まだ作業中とのことですが、他のページに比べて非常に歯切れがわるいです。でも、この歯切れのわるさは、ある意味、共感がもてます。私だって、「数学教育ってなんのためにあるの?」という問いに、明確にシンプルに答えることはできません。

 しかし、遠山啓は、そのときどきにおいて明確に答えを出します。「算数と数学は子どもたちが,将来,自然科学や社会科学を学んでいくためのたいせつな基盤をつくってやるために教えるのである」と言われれば、この答えをうけて、「本当にそうかな?」ということを考えられるし、では、「自然科学や社会科学とは具体的にどういうものだろう?」ということを考えられるし、さらには、「自然科学や社会科学において、普遍であるものはなにか?」「自然科学や社会科学が変わっていくとしたら、数学教育もそれに応じて変えていくべきものなのか?」ということも考えられます。ちなみに私は現在、「本当にそうかな?」のスタンスでいます。

(つづく)

〔関連記事〕 遠山啓には、何が見えていたのだろう
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