TETRA’s MATH

『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)5/5 ―― 読み終わりの羨望と希望

 あとがきの結びのところで、京都と札幌が「=」でつながれていることに気づいた。成就した遠距離恋愛ドラマのエンディングを見ているようだというのは大げさだとしても、「くそぅ、こやつら(羨)」という感覚は生じた。実際、読み始めたばかりのころからうらやましかった。

 と同時に、こういうことが起こり得るんだとあらためて心にしみた。そういうことが起こり得ること自体が、まわりまわって私自身の希望にもつながる感覚があった。

 西郷さんと田口さんをつなげたのは、ピート・ハットさんという方なのだそう……と書いてだいぶたってから気がついたのだが、これは『圏論の歩き方』に出てくるPietさんではないか!

 気がつくのに時間がかかったのも無理はないと自分で思う。なぜなら、ハットさんが田口さんに会いに来るところから話が始まるから。

 しかし確かにその時点でハットさんは西郷さんのことを知っている。だからこそ田口さんと西郷さんをつなげられたわけであり。

 カフェで学生を「圏論ナンパ」して『圏論の歩き方』のきっかけをつくったり、西郷さんを海外の極左圏論主義者の「同志」たちとつなげたりしている天体物理学者 Piet Hut 氏(『圏論の道案内』より)。この方きっとすごいハブなんだ。なお、異分野協働のプロであるらしい。

 そのハットさんと田口さんをつなげたのがダン・ザハヴィさんという現象学者だという。ハブにはハブがいる。

 そのようないろいろな出会いと人の行動がこの本を現しめ、それに私も出会うことができた。9年という長い年月をかけて。

 この本に出会った私は、仏教の縁起について書いたときとは違う心持ちでブログの記事に取り組んでいた。その途中で、注文していた『現代思想』2020年7月号「特集:圏論の世界」が届いた。オープニングの加藤文元さんと西郷甲矢人さんの対談にざっと目を通したとき、「悪目立ち」という言葉が少し切なかった。「くすっ」と笑えばいいところなのかもしれないが。

 どの口がそれを言う、とも思う。『〈現実〉とは何か』をなかなか読まなかったのは、「様子見」だったからだ。自分が何かそこからもらえるのかどうかということ以上に、何か構えていた。当時はそういう意識はなかったけれど、結局、自分の興味に近そうであるからこそ飛びつかないようにしていたのかもしれない。

 今回のブログの記事を投稿することについても、最初は余計な懸念があった。それが払拭できたのは、私がこの書から間接的に得たいちばん大きなことは、「自分の問いを立てられるのなら、それでだいじょうぶ」ということだったから。もっといえば、「立てたい問いがあるのなら、立てていいのだ」ということも。それは、私がこの本に問うて得たひとつの答えだ。

 そしてそれを手放さなくてはいけない。というよりも手放したい。普遍性に参入するには問いが貧弱すぎて、すなわち答えが貧弱すぎて私は消えることすらできないが、手放すという自由の実践はできる。

         *     *     *

 「読み終わり」とタイトルに書いたが、この本はまだ読み始めたばかり。これからわかることもたくさんあるだろう。ひとまず初対面の感想を5記事ほど書いてみたが、この本の魅力をまったく伝えられていないことに落ち込んでいる。この際、本のあちこちにある標語的、魅惑的なフレーズをピックアップしてみようかとも思ったが、たぶん、それでも伝わらない。というか、いまの私には伝えられない。

 せめて最後に、「序」と「あとがき」から以下の部分を引用して、ひとくぎりにしたいと思う。


(「序」より)
すなわち、たとえどれほど「数学から遠い」と思われる分野であっても、また自身が数学に対して苦手意識をもっている研究者であってさえも、現実に真正面から取り組もうとすれば、それは結果として「数学になってしまう」のではないか、という実感である。


(「あとがき」より)
このような「現実論」においては、いわゆる哲学の専門家ではない人々との協同が必要となるだろう。しかしそれは、哲学を薄めてわかりやすくしたり、哲学を科学に「適合」させたりするような営みではなく、むしろその対話によって「共に哲学する」ことでなければならない。


 く、くそう、こやつら……!!(多大なる感謝を込めて)
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)4/5 ―― 第三章と第一章はどうか

 『第三章 「現われること」の理論 ―─ 現象学と圏論』は、まず現象学についての話から始まる。というか、始まっているのだと思う。

 なぜ「思う」かというと、なんだかもうすでに圏論の話が始まっているような感触があっったから。「射映」という用語やフッサールの名は現象学からきたものだろうけれど、「可逆性」という言葉も現象学で出てくるのだろうか。“思考の融合の書”ゆえ、いい意味で判断がつかなかった。

 そして圏論の説明に入っていく。思い切ったことをいえば、ここの部分はなんだったら読み流していいと思う。

 教科書のような書き方はされていないが、それでもおさえておかなければいけない出発点はあり、そこはおさえられている。これを書かないわけにはいかないと思う。けしてわかりにくくはない。むしろわかりやすい。

 が、どんなにわかりやすく書いてあるとしても、一度も圏論にふれたことがない人が、この本で圏論をわかろうとするのは無理があるように感じた。それは著者のせいではない。

 それこそ圏論についても、子どもが数をおぼえるときと同じように<順序やものを変えて>習得していくしかないのではなかろうか。つまり、テキストやアプローチを変えて。この本の圏論の説明の記述を何度も繰り返し読んだとしても、それだけでは圏論を理解することはできない。左手の指だけを使って数を数えているようなものだと思う。

 そのような学びのプロセスは、すべてが「固有」のものであることについても、久しぶりに考えた。

 逆にいえば、この本で触れる圏論もひとつの「圏論体験」になる。なので、読み「飛ばす」のはもったいないから、読み「流す」くらいはしていいと思う。でも、読み込む必要はないかもしれない。と誰に言っているかというと、「ここ読むの、大変そうだなー」「えー、これ理解できないと先のことがわからないのー」と思ったかもしれないかつての自分に言っている。

 現在の私としては、圏論の経験をまたひとつ重ね、しかもそれがたいへんに良質の経験だったので、よかったなぁと感じている。特に、「恒等射」「同型」「自然変換」について、新しい、よい体験を重ねることができた。

         *     *     *

 最後に第一章について。

 最初の章について最後に書くというのもなんだけれど、第一章はとりあえず読まないと話が始まらないところだし、第一章なのでまだ元気もあるから、読めばいいと思う。って、だれに言っているかといえば……(同上)。

 実は、この本の存在を知ってから実際に手に取るまでに(電子版だけど)、少し時間がかかった。気になりつつなんとなく気が向かなかった。それにはいくつか理由があるのだが(たとえば書名のこととか)、そのうちのひとつは「また二重スリットから始めねばならぬのか」という億劫さもあったように思う。

 二重スリットの実験については巻末注があり、粒子性を含めた実験は現代的なものとして参照のためのURLと書籍が示されている。
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)3/5 ―― たとえば第二章から第四章へ

 『〈現実〉とは何か』のページを最初にめくったとき、「これはわがことだ」と思った。「わがこと」というのは「私のこと」という意味だが、もちろん自分について書いてあるということではなく、自分の関心・興味、私の問いがここにある、ということ。

 一方、ゲンキンなもので、この本の成り立ちに深く感動しておきながら、「ここの記述はちょっと冗長じゃないかなぁ、ひとりで書いていたらもっと整理されてたかな?」なんてことを思ったりもした。「ひとりで」というのは、それぞれの著者が「私ひとりで」ということ。

 さらに、「われわれ」という複数形の一人称で語られているところについては、ほっとする場面もあれば、かすかにひっかかるときもあった。「われわれ」というのはつまり「私たち」ということ。

 その「私」(という語)についても、この本では丁寧に論じてある。そうなるといよいよ私にとって「わがこと」になっていく。そういうわけで、特に「わがこと」感が強かったのが「第四章 置き換え可能性から自由へ ―― 現実論のポテンシャル」。

 言われてみればなるほど確かに「私」という語はそうだ。だれが使うかによって意味が確定するし、だれが使ってもいい。小さい子どもは自分のことを名前で呼ぶことが多いが、それがいつからか「私」やそれに対応する言葉に変わっていく。大学生になった娘にそのことを聞いてみたら、面白い事実がわかった。

 娘が自分のことを「私」と呼び始めたのは、いま住んでるこの部屋に住み始めた頃だという。娘が小3のときにマンション内引っ越しをしているから、小3以降ということになるが、それは遅すぎるだろう思って「学校では私って呼んでたでしょ?」と聞いてみると、確かに私と呼んでいたらしく、実は小学校入学後にそういう指導があったらしいのだ。知らなかった。つまり、自分のことを「私」と称させる指導があったのだそう。

 そういうわけで学校では「私」、うちでは自分の名前で自分のことを呼んでいたらしいのだが、それを意識的にうちでも「私」に変えた頃の風景として覚えているのがこの部屋の玄関なので、上記のような答えになったらしい。「どうして変えたの?」ときいたら、「頭がよさそうに見えると思ったから、かっこいいと思ったから」とのこと。なぜかっこいいと思ったのかさらに聞いたら、「大人になったような感じがするから」との返事。

 具体的な一例を身近で確認できてよかったと思うと同時に、娘の変化に気づかなかった自分の観察力のなさも実感した。

 「私」の話は「倫理」の話を経て、「「実体論からの脱却」の話へとつながっていくのだが、仏教の「無我」「縁起」「空」との関連をふまえて、個人的にはさらに考えていきたい課題となった。というか、この本の中で「私」についての話が、いちばん「そうきたかーーー」と思うところだった。

 私はこれまで網の目を考えるとき、とても平面的に考えていた。なんのために圏論に興味もったんだよ、といまになって思う。

 章タイトルにもあるように、上記の議論は「自由」の話につながっていく。その途中で「確かさ」「同じもの」「変換」「幾何学の冒険」「問いがなければ答えがない」ということについての考察がなされていく。

 締めくくりは、『「現実論」としての思考 ―― 哲学と科学の深淵に還る』。

 感動的だった。
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)2/5 ―― いっそ第五章から第二章へ

 予想していたより読みやすい本だった。もう少し現象学の知識がないと読みにくいかと思っていたが、そんなことはまったくなかった。

 一方、圏論については、圏論のなんたるかについてわかりやすく丁寧に、かつ煩雑にならないように説明してあるのだが、それでもやっぱりたぶん圏論に接したことがある人でないとわからないのではないかと思った。このことについては別の文章でまた触れたい。

 その他の物理、数学の話題については、内容にそれほど踏み込んでないぶんわかりやすい。つまり、何のためにその話が出されているかがよくわかるようになっている。

 仏教はどうだろうか。人によっては「なぜここで仏教?」というストレスがかかるかもしれない。「なぜここで?」もなにも、この書ではかなり大きな手がかりとされている。というか、ぶっちゃけ、この本は仏教の本といっても許されるんじゃないか、くらいに私は思っている。龍樹がいかに天才だったかを画期的な方法で解説した本だ、と。

 思い返せば『圏論の歩き方』で西郷甲矢人さんが仏教の縁起の話をちらりと出しているのを読んだとき、「こんなところで縁起の話とか出して大丈夫かな」とほんの少し思ったものだった。こういうことがひっかかってしまう人がいるような気がしたから。

 その後、『圏論の道案内』の第10章で、西郷さんの子ども時代(から)のヒーローが「ナーガールジュナ(龍樹)氏」と「ゴータマ・ブッダ氏」であることを知った。つまりは筋金入りだと知った。なお、お寺の跡継ぎに生まれたとか、そういうことではない。

 しかし、それで私が安心してもあまり意味はない。「どうしてここで仏教?」と思う人はそんな情報をもっていたとしても、結局やっぱり(場合によってはなおさら)不愉快に思うような気がするから。

 ちなみに私にとっては、西郷さんがヒーローとして、まずナーガールジュナの名をあげ、そのあと「もちろん」つきでブッダの名を出しておられるディテイルが、それなりの情報になっている。(ちなみに算術家モッガラーナの名も出てくる。)

 ついでに忘れないうちに書いておくと、西郷さんが仏教の話を出すときの出典が石飛道子さんの著書に偏っていることはけっこう気になっている。なお、石飛道子『「空」の発見』はこの本よりも前に購入済みなのだが、まだ読めていない。

         *     *     *

 思うに、この『〈現実〉とは何か』を読むとき、第一章をながめたあと、いっそ第五章の「〈自由〉から現実を捉えなおす――決定論から非可換確率論へ」を読んでしまうというのも手かもしれない。というか、自分はそう読んだ。ひととおりながめたあとなので言えることかもしれないけれど。

 第五章を読んでいると、第二章は読まないといけないことがわかってくる。第二章は『「数学」とは何をすることなのか ―― 非規準的選択』というタイトルになっており、この非規準的選択をおさえないとこの本は楽しめない。

 非規準的選択とは「何かを選ばなければならないが、一義的に決まるわけではない選択」のことであり、「iと−i」の話で導入がなされている。

 また、子どもが数の概念を習得するときの話も出されていてわかりやすい。ここを読んで私は、昔、母から聞いた話を思い出した。中学校の数学教師だった母は算数教育とも関わりがあり、その話題はもしかすると障害児教育についてのものだったかもしれない。

 子どもに指を使って数を教えようとするとき、親指から順に1、2、3、4、5と小指まで数えてみせると、小指を「5」と思ってしまうという話。詳細は覚えていないが、だいたいそんな内容だった。この子どもに数を教えようとする人が、いつでも左手の指を親指から小指まで右手でさして「1、2、3、4、5」と数えてみせると、その子にとっては「(左手の)親指、人差し指、中指、薬指、小指」=「1、2、3、4、5」となってしまうだろう。

 数がわかるためには、「どこから数えてもいいのだ」ということがわからなければならないが、そのためにはひとまずどこからか数えなければならない。つまり、基数の概念は、序数的なものを通じてしか成立しない。特定の「選択」によってしか「数える」ことは成立しない。しかし、「数える」ということは、その「特定の選択」に依存しないということをすでに含意している。

 数学を数学らしくしている「普遍性」は、「非規準的選択」を通してしか成立しないが、「普遍性」を成り立たせるために、選択した出来事は消えなくてはならない。つまり、選択した出来事はみずから「自分を見えなくする」必要がある。(なお、本の記述とは前後して抜粋している)

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 読み始めのメモで「スピノザ」の下に書いたのは、「おしえ」「きえる」というワードだった。この2語がどこからきたのかおおよその察しはついていたが、自分のブログでは確認できなかったのでネットで検索してさがしたところ、見つかった。おそらく、國分功一郎『スピノザの方法』をのぞいたときに見かけた、みずからの消滅をめざして活動する教師の在り方のことを思い出したのだと思う。

 また、『「問い」の問答』というワードもメモしている。南直哉さんと玄侑宗久さんの対談をまとめた本の書名からくるワードで、これについてもブログで少し書いたと思っていたのだが、見つからなかった。削除したのか、別のところに書いたのか、そもそも書いていないのか。「問いを閉じない」話が書いてあった記憶があるのだが、確認はできていない。
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『〈現実〉とは何か』(西郷甲矢人・田口茂)1/5 ―― 読み始めで明滅するもの

 何より、この本の成り立ちに深く感動している。

 読み始めてしばらくたったころ、「あれ、これってどこがどちらの担当だったっけ?」と疑問に思った私は、先に「あとがき」を読みにいった。そして、この本ができあがるプロセスを知って驚いた。この本は2人の著者の思考の融合の書なのだ。比喩ではなく、本当に。

 ことの始まりは刊行の9年前であったらしい。思い返せば『圏論の歩き方』の西郷さんのページの欄外に、確かに田口茂さんのお名前がある(p.207)。そのころまでに、もう5年ほどたっていたことになる。

 私はといえば、今年の春、久しぶりにこのブログの更新をする気になり、仏教の縁起について10記事ほど書いた。数学教育ブログに仏教のことを書くのもへんな話だが、ほかに場所がなかったのと、とにかくいまの考えをどこかに記録しておきたかったので、書いた。

 そのなかで『圏論の歩き方』にほんの少しだけ触れることになったが、あの時点では圏論ことはまったく頭になかった。純粋に、自分にとっての仏教の縁起の問題を考えたかっただけだった。(>要素が矢印や線分でつながれた図を意識するようになった経過

 そんなこんなで、とても久しぶりにシンクロニシティが起こっていることに興奮している。しかも面白いことに、因果性をテーマにシンクロしているのだ。

         *     *     *

 いまはもう公開していないブログの記事のなかに、「上野修『スピノザの世界』、読み始めで明滅するもの」(2012年9月)という文章がある。そこで私はこんなことを書いている。
よいタイミングで手にした本というものは、読んでいるとき、特に読み始めのときに、いろいろなことを思い出したり連想したりするものであり、読んでいる頭とは別のところでキラン、キランと光っては消えていく何か明滅するものたちをよく感じます。
 『〈現実〉とは何か』も、この明滅をかなりの勢いで感じながら初回のページをめくった。そのときにはスピードが大事だと思ったので立ち止まりたくなかったが、読み終わったときに忘れてしまって思い出せなくなるのももったいなかったので、ざっと単語だけメモをとりながら読んでいった。

 ということもあり、メモの最初のワードは「スピノザ」「明滅」となっている。そのあとページをめくり終わるまでにまったく別のことでまたスピノザを思い出し、私はあるワードを付け加えたのだった。

 メモの中にはスピノザのほかにもいくつか人名が含まれている。本に出てくる人名もあれば出てこない人名もある。郡司、辻下、カヴァイエス、遠山啓、田辺元、龍樹、ボルン、ハイゼンベルク。

 ここまではよかった。再度この人たちにアクセスするにはどうしたらいいかメドがたつから。「えっ」と思ったのが終盤で登場したニクラス・ルーマン。なぜ私はこの人名を知っているのか、どこで接触があったのか、思い出せない。直接ではないことはわかった。だれかがルーマンを参照していて、そのだれかと私は接触したことがあるのだ、きっと。

 いったん本から離れて別のことをしていたら、あることが思い当たった。試しに「ルーマン」でブログ内検索してみたら、なんのことはない、非公開の記事が4件もひっかかってきた。思い当たったそのことではなく、オートポイエーシスだった。

 ブログを書いてきてよかったとしみじみ思った。自分の思考の過程、出会いの記録。

         *     *     *

 『〈現実〉とは何か』に書かれてあることの8割は、新しいというより懐かしい。内容が懐かしいのではなく、そこにある「問い」が懐かしい。そして、残りの2割がとても新しい。

 もしかすると、ものすごく新しいものは、「ほんの少しだけ新しい」という顔をしているものなのかもしれない。
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