TETRA’s MATH

2011年4月に書いた、量子力学のエントリについて

 2011年4月に、量子力学に関するエントリをいくつか書きました。そのなかのひとつ、量子力学/ボーアの原子モデル(1)に対して、2014年9月に以下のようなご指摘を Twitter でいただいておりました。↓
https://twitter.com/sunchanuiguru/status/512979129499525120

 9月の段階では、何度か Twitter でやりとりをさせていただいたのち、該当エントリにコメントをつけて一区切りとしたのですが、どういうわけだか12月下旬から急に気になりだしたので、追加エントリで補足させていただくことにします。

 まずお伝えしたいのは、『なるほど量子力学機戞並湿絏躾傭/海鳴社/2006年)において、Enにマイナスをつけたことに対し、確かに「発想の転換」という言葉はあるものの、“「低い」から「深い」への転換を行ったのだと思います”というのは私の表現であり、海のたとえも私のイメージだということです。

 「行ったのだと思います」ではなく、「私はこのようにイメージして理解した」と書くべきところでした。

 いずれにせよここでいう「発想の転換」は、Twitterでご指摘をいただいたように、特別なことではなく、あたりまえといえばあたりまえのことなのかもしれません。少なくとも、古典力学にはなかった量子力学ならではの「発想の転換」ではないのでしょう。

 実際、本でも、上記の意味での「発想の転換」についてはさらっと書いてあるだけで、ボーアが立てた「大胆な仮説」については、それよりも前の部分に書いてあります。
 ボーア(Bohr)は、ラザフォードの原子モデルと古典論の間にある矛盾を取り除くために、プランクやアインシュタインの量子論を使って説明できないかと思い立った。
 ここで、ボーアは大胆な仮説をたてる。そもそもラザフォードの原子モデルが破綻するのは、荷電粒子である電子が原子核のまわりを等速円運動すると電磁波を放出して、そのエネルギーを失ってしまうことにある。そこで、ボーアは、ある特定の軌道を電子がまわっている時には、円運動を行っても電磁波を放出しないと仮定した。
 そして、電磁波を放出しない軌道のみが安定な軌道としたのである。(後略)
(p.70〜71)

 私自身、先の「発想の転換」を量子力学の核心的なものだとは思っていませんが、あたりまえのことと思うほど馴染みもなかったので、あのようなイメージを用いて理解したそのプロセスを書いたのでした。ちなみにマイナスがつくこと自体に抵抗はありません。

 ところで、実はこの件に関して、村上雅人先生に直接メールで問い合わせさせていただきました。村上先生はとても丁寧な内容のお返事を何度もくださって、わかりやすく説明してくださいました。助手の先生にも大変お世話になりました。

 その内容すべてを理解したとは言えない状態ではありますが、以前よりも「ポテンシャル」という言葉が怖くなくなったのは確かです。そして、怖さが減ったのと同時に、ポテンシャルというのは奥が深く、まだまだ分からないことが多い分野であることを認識するにいたりました。

 このような機会をあたえてくださった鰹節猫吉さん、積分定数さん、そして、村上先生、助手の先生に、この場をかりて深くお礼申し上げます。

 今回は量子力学についてでしたが、その他の本についても、ブログで何か書くときには、引用部分のほかは、著者の言葉を使わせていただきながらも、自分の言葉やイメージを加え、私の表現で私の理解の道筋を書いていますので、本の内容に興味・疑問をもたれた場合は、ぜひ、原典をあたってみていただければと思っております。

 最近、noteにかける時間が増えてブログの更新が減っておりました。また少しずつエントリを書いていきたいと思っていますので、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます!
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系統学習のこととあわせて(まとめ)/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(5)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

 を読んできました。今回で第7章は一区切りです。

 芦田さんは、「誤解を恐れずに言えば」というかっこ書きつきで、学校教育の基本モデルは〈家庭〉だと思えばいい、と書いておられます。どういうことかというと、親は子供を〈子供満足〉のために育てているのではない、ということ。〈親〉は文字通り子供の″生産者”なのだから。

 この〈子供満足〉という表記は、その前にある〈顧客満足〉を受けているのだと思います。この「顧客満足」の反対語が、まさに「教育」である、と。

 「顧客」というマーケティング概念は〈消費者〉という概念が成立して以来のものであり、そもそも〈マーケティング〉という領域そのものが《消費者の時代》の到来と分かちがたく結びついている。《消費者の時代》とは、個人消費が国家の総消費の50、60%を超える時代のこと。1回で億単位のお金が動く大企業の設備投資よりも、デパート、スーパー、コンビ二、行楽地などでの個人消費の方が消費額として上回る時代のこと。

 そして《消費者の時代》というのは、生産が消費の前提ではなく、消費が生産の前提、消費が新たな消費を生み出す時代である。生産の前提となるような〈不足=欠如〉は、高度な消費大国では存在していない。

(私はこの部分を読んで、「ほしいものが、ほしいわ。」という1980年代の西武百貨店のコピーのことを思い出しました>http://math.artet.net/?eid=1351575)。

 何重にも記号化され、シンボル化された消費が、人々の消費行動を規定している。〈消費者〉〈顧客〉とはこういった人々のことを言う。なので、〈顧客満足〉とは、〈不足=欠如〉(※本では欠乏とありましたが欠如で統一しました)や〈必要〉を超えた消費者、自立した消費者としての〈顧客〉の"満足”を意味している。

 つまり生産に従属しない主体的な消費者=顧客の″満足”を意味している。

(p.201)

 〈学校教育〉の対象は、すべて〈顧客〉ではないと思う、と芦田さんは語ります。〈学校教育〉の対象は、〈生涯教育〉でいうところのような〈主体〉を持たない。主体を形成するために教育を行うのが〈学校教育〉であって、教育目的の形成は教育する側に委ねられている、と。

 したがって、〈学校教育〉は、学生の〈不足=欠如〉(=主体以前の欠如)に定位した生産型の教育を行う場所であって、〈消費者〉としての″受講生”を想定しているわけではない。社会がどんなに高度化しようと、〈学校〉は非消費的な場所である。

 これまで自分が興味をもってきた教育の問題と、消費社会の問題がこんなふうにつながるとは思っていなかったので、目から鱗でした。特に大学や専門学校といった高等教育の問題を考えるときに、ともすれば学生が〈顧客〉になってしまう、〈顧客〉扱いされるということが起こってくるのでしょう。

 つまり、〈学校教育〉の〈教員〉とは、社会的な〈親〉である、ということ。〈親〉が子供満足のために子供を〈育てる〉のではないようにして、〈教員〉や〈学校〉にとって、子供(児童・生徒・学生)は〈顧客〉なのではない、と。

子供は他動詞として学ぶことの中で、つまり〈対象〉に没入することの中で学ぶことの目的を見出し、〈主体〉を形成していくのである。〈学ぶ主体〉の〈学び〉が先にあるのではないのだ。

(p.212)

 この本を読んでいると、教師って生半可な気持ちでできるもんじゃないなぁ……と思うのと同時に、なんてやりがいのある仕事なんだろう!とも思えてきます。この道に入りかけて結局入らなかった私が言えたことでもありませんが、これから教師になろうとしている若い方々には、是非この本を読んでいただきたいです。

 さらに、芦田さんの提案を真摯に受けとめ、それを実践するのであれば、カリキュラム研究というものがもっともっと必要になってくるよなぁと思いました。そして算数教育の歴史について、もう一度考えなおさなくてはなりません。

 なぜならば、系統的な学習の必要性は、もう50年も前に主張され、1960年代に「教えの系統性」は熱心に研究され、そして実践されてきたので。で、それではうまくいかなかったという歴史的経緯があるわけなので。なぜうまくいかなかったのか。ここで今一度、汐見稔幸さんの指摘を思い起こしてみます。

系統主義とは、子どもの内面(主体)と社会や自然(客体)との間には,自然発生的には埋められない溝や矛盾があり,主体はときには禁欲してまで,その客体固有の論理をそれに固有のしかたで取り入れる(内面化する)必要がある。しかもその客体固有の論理は系統的,論理的に構造化されているので,その構造に沿って教えるのが合理的であるとする考えである。

(『時代は動く!どうする算数・数学教育』国土社/p.70)
 

つまり,外から持ち込む学習材に関するかぎり,「順次性」や「系統性」が保障されれば客体の論理と主体の論理の間に矛盾や溝はさして存在しないで同型性を保ちながら学習は進む,ということを系統主義は前提としたのである。

(同p.71)

 芦田さんの本を読んでいると、「哲学をやってきた人は違うなぁ」なんてことを思うのですが、やはり(ちゃんとした)教育学者も侮れません。

 そしてカリキュラムを考えるうえで、1970年代に(1968年指導要領で)現代化に失敗したという経験もなかったことにはできないわけです。遠山啓は現代化の失敗(その原因は「集合」などをとりいれたためではなく、古い教材の切りすてを行わなかった点にあると分析している)をふまえ、1978年にこんなことを語っています(丸付き数字をかっこ付きかえました)。↓

いま,われわれがとくに力を入れてやらねばならないことはつぎの二つのことである。

(1)―― 数学と,その隣接諸科学の全領域を見わたして,教育内容となりえるものを拾いあげて選択の対象にする。
(2)―― 上記(1)によって拾いあげられた多種多様の内容からごく少数のものを選びだして,体系化する。

(遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5『量とはなにか〈1〉』p.281)

 もっともな提案だと思うのですが、いま現在「数学と、その隣接諸科学の全領域」を見わたせる人は、どこにいるのでしょうか。そして、そのなかから何を根拠に、どうやってごく少数のものを選びだせばいいのでしょうか。もし、これ以外の方法があるとしたら、それはどんな方法なのでしょうか。だれがそれをやってくれるのでしょうか。いまの体系は、歴史的な流れをくんで、ちょっとずつ変えているものだと思うから(少なくとも小、中学校については)。いまの体系に大きな問題がないのであれば、あとは「有機化」の問題ですよね。

 前回示したように、芦田さんは、大学の基礎教育は4年次の仕上がり目標から逆算されて作られるべき、ということを書いておられます。ぶつ切りの授業構成ではなくて、だれでも階段をあがっていけるよう、積み上げ型教育をしていくためにはこのような目標と逆算が必要なのだろうと思います。大学の場合、各学部に分かれて入学し、各専攻に分かれて卒業していくのだから、それも可能でしょうし、必要なことでしょう。

 しかし、高校卒業時、あるいは中学卒業時に、進路に関わらずすべての生徒に共通した「目標」とはなんなのか。いま実際に設定されている「目標」は「目標」たりえているのか。それを考えていくと、なかなか難しいものがあるなぁ、という気持ちになってきます。

 さらには、高校や大学を選ぶとき、あるいは学部や専攻を選ぶ段階において、学ぶものの〈主体〉なしということはありえないのではないか、と私は思っています。それとも、進路さえも教師に示してもらうべきなのでしょうか。この大学のこの学部に行きなさい、と。

 なにしろ高校卒業時に〈主体〉を形成できなかった私は、志望校を選ぶのにすごく時間がかかってしまったうえ、大学卒業時にも〈主体〉が形成されておらず、ついに教員の道を選ぶということをしませんでした。(>

 だからいまごろ考えたくてしかたなくて、50歳手前にもなって「主体」ってなんだろう?などとをうだうだ考える毎日を送っているのかもしれません。まったくそんな時間があったら働けよと自分でも思いますが、もうどうにもこうにもダメみたいです。

 以上、芦田宏直『努力する人間になってはいけない』の第7章を読んできました。図書館の都合で今回3週間借りられて助かったのですが、あした返却しなくちゃいけないのでいま焦っています。(今回、経済的都合で購入までいきませんでしたが、期間がかぎられていると集中していいかも…) 公開したとたんに間違いに気づくこともあるので、できれば本が手元にあるうちに公開しておきたい。

 というわけで、第7章についてはこれで一区切りです。

 あとはトークセッションの感想を書かなくちゃ。

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現在の高等教育の問題点と、初等教育における発表型・討論型の授業について私が思うこと/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(4)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。



 前回、大学の大綱化について書きましたが、そのなかで「討論型、体験型授業の流行」の話にちょっと触れました。この部分をもう少し詳しく読んでいきます。

 芦田さんは、コミュニケーション能力、問題発見・解決能力、人間力養成といったことを目標とするハイパー・メリトクラシー教育は、真剣に取り組もうとすればするほど「学際的」になると書いておられます。

 ここでいう各種「○○力」は、インプット型の知識や能力ではなく、アウトプット型の実践的な能力なので、総合的な能力になり、その分「学際的」になる、と。そして、授業形態としては、演習、発表型、調査型、議論・討論型、体験型、ワークショップスタイルになる。

 いまの高等教育の一番の問題は、大学教育も専門学校教育も、積み上げ型のカリキュラムになっていないことであり、大学教育の場合は教養主義的な科目単独主義がそれを阻害し、専門学校の場合は資格主義的な暗記教育、過去問教育がそれを阻害している、と芦田さんは指摘します。

 現在の私立大学カリキュラムは、バイキングレストランみたいなカリキュラムになっているそうです。なんとなくカルチャーセンターを彷彿とさせる話です。「お好きな講座をお選びください」みたいな感じで。そうなるとたしかに生涯学習っぽくなっていきますね。

 そんなこんなで、必修科目であっても積み上がっていかなくて、概論講座のオンパレードになってしまっているという現状があり、百歩譲って「体系的」ではあっても「有機的」ではない。大学進学率が20%程度の時代の大学生なら、概論講座を受講しても、それを滋養として自分の目指すべき専門性に特化していく能力を持っていただろうけれど、ここまで大衆化した大学生では、この種の概論講座は「国語・算数・理科・社会」なみの一般教育にしか見えず、魅力的なものに見えない、と。

 さらに、最近では「リメディアル教育」も盛んになってきて、中学校・高校の復習授業を厚く用意する大学が出てきており、中学校・高校で勉強の苦手だった大学生たちは、ふたたびつまらない授業を受けることになる。リメディアルな「基礎教育」も、それを元にして積み上がる先の科目との連携など何も取れていない。基礎教育は4年次の仕上がり目標から逆算されて作られるべきなのに、4年生の専門ゼミの教授たちは、基礎教育課程にそもそも関心がない。

 結局、専門ゼミ教授たちは「基礎学力の低さ」に苦情は言いますが、基礎教育のあり方に関心はない。もちろんそれを担う気もない。昔は「概論」教授と言えば、その学科を代表する名誉教授級の先生が担っていましたが、いまでは、「『概論』くらいは誰でもやれるからあなたやってよ」みたいな乗りで新人専任教員がやる始末。概論教授ではなくて教授概論になっているわけです。終わり(出口や目標)を知り尽くしているからこそ、始まり(入門)を適切に誘導できるというのが、真正な「概論」教授の意味ですが、その基本をリメディアルな「基礎教育」は覆い隠している。

(p.223)

 で、このあと続く「教員人事が大学のカリキュラム改編を妨げている」という話を割愛して先に進むと、「キャリア教育はなんの役にも立たないのは明白」という話に入っていきます。本来のキャリア論というものは、キャリアカウンセラーと呼ばれる人たちの人生論をきくことではなくて、専門教育をやっている先生が、日々の教えるべき知識や技術の付加価値として伝えていくこと、コアカリキュラムの中でやっていくことだ、と。

 いわゆる″キャリア教育”に力を入れれば入れるほどコアカリキュラム改善が遅れるという悪循環、つまり大学改革の悪循環がいまの若者の就職難の実態です。

(p.225)

 なるほど。

 さらにこの先のp.232で、積み上げ型カリキュラムこそがリメディアル授業なんだということをみんなわかっていない、という指摘もあります。1つの科目、1つのテーマを100単位分かけてじっくり取り組むカリキュラムなのだから、学生が躓くところなどは前もってシミュレーションされて十分な時間数を配置できる。だからこそ誰でも高い階段を登っていくことができる。選択科目主義の方が遥かに放ったらかしの授業だと。

 最近、文科省は「主体的な学び」の必要を盛んに説き始めているけれど、「アホな大学関係者」はそれをハイパー・メリトクラシー能力育成推奨と勘違いして、「ゼミ」とか「発表型」「調査型」授業とか「ワークショップスタイル」の授業を盛んに導入しようとしている。文科省の言いたい、2008年以降の「主体」性とは、教育授業外学習をどう組織するかということ、つまり先生のいないときでも自ら学習しようとする予復習体制をどう形成するかということであって、そのために一番必要なのはシラバス・コマシラバスの充実なのに、

授業計画(シラバス・コマシラバス)の改善を避けて、学生に「主体的に」学ばせても何の意味もないのです。もう少し先生方自身が「主体的」に授業に取り組まないと。

(p.234)

 大学の先生が「主体的」に授業に取り組んでいない(そうしなくてもやっていける)というのはちょっと意外でした。それは不可能かと思っていたのですが…

 さて、そんなこんなで芦田さんの議論は、高等教育の内容を具体的にみていくものになっているので、ここから直接「では初等教育はどうあるべきか?」ということは読み取れないわけですが、発表型や討論・議論型、体験型の授業は、初等教育にとってはわるいことではないと私が思うその理由について、書いてみたいと思います。

 たとえば、娘が小学校2年生のときに見た学校公開中の授業で、「三角形って3つの角って書いてある」ということに気づいた児童がいた場面について。確か算数の少人数教室の授業で、先生は娘のクラスの担任の先生だったと記憶しています。正規採用されて1年目の若い教師でしたが、特にこれといって″乱れ”もない普通に成立している整った授業でした。

 その授業では、「3つの直線でかこまれた」図形を三角形といい、「4つの直線でかこまれた」図形を四角形ということに非常に重きをおいており、直線とはなにか、かこまれているとは何か、ということについても丁寧に教えていく内容になっていました。つまり、教育目標が非常にはっきりしている授業だったといえます。

 なおかつ、「角」は3年生の学習なので、カリキュラム上、いまは扱えないわけです。だから教師は、彼の疑問・発見を「ないもの」にするしかなかった。教師はきわめて「正しい授業」をしていたのだと思います。

 しかし私は思いました。こんなとき、彼の発見を面白いと教師は感じてはいけないのか?と。そして、「先生も気づかなかった、それは面白い発見だから、もし調べられたら調べてきて、次のときに発表してくれる?」と教師は言ってはいけないのか、と。

 そのような発言は、ある意味で「調査・発表」を促すものであり、「アウトプット型教育」につながるものと言ってもいいのかもしれません。しかし、アウトプットするにはインプットが必要だと思うのです。どんなものでも。しかも、この「お題」は彼自身が見出したものです。もし彼が「三角形の名称の歴史」を調べてきて、それをみんなの前で発表したとしたら、そこには確かに「インプット」があると思うのです。カリキュラムには予定されていなかったインプット。

 そして、そのきっかけとなったのは授業であり、授業をきちんときいていた彼の疑問・発見です。教師もそこにいた児童も、予定外の「インプット」ができてお得だと私は思うのです。もちろん、調べてきたことの正誤の確認は必要だと思いますが(ググればいいってわけじゃないのだし……って、それ言えば教科書にのっていることはすべて「正しい」のかという問題もありますが)、彼のこのインプットは、まさに文科省が説くところの授業外学習なのではないでしょうか。

 そんなことをしていないで、カリキュラムにのっとって、いらぬ疑問や発見はわきにおいといて、教師が粛々と授業をやっていけばいいのでしょうか。

 あるいは、小数のかけ算で、なぜ小数点をずらすことになるのか議論なんかしてないで、タイルでもなんでも使って「こうなります」と教えていけばいいのでしょうか。

 もし、小学校低学年の児童に主体や自己がないとしたら、「疑問」をもつのはいったいだれなんだろう、という疑問があります。主体なしに学ぶということは可能なのか?

 とはいえ、芦田さんがおっしゃるところの「主体性」の意味は、私もわかっているつもりです。要は、学ぶ〈対象〉ではなく〈わたし〉に向かうような、そんな教育になっているということですよね。学ぶということが自己表現になりつつある、と。それは由々しき問題だと私も思います。

 それはそうとして、小学校の教育は一応(かなり)「体系化」されています。しかし、「有機化」はなかなか難しい。

 別に議論型や発表型の授業をしなくてもいいのです。そういうことしなくてもヒマしてる子どもがいない授業はできるわけであり。だけど、してわるいってこともないんじゃないのかな、と思うわけです。問題なのは結局、授業の「型」なのではなくて、「質」なのだから。

 生活ブログで書いたように、「校門と塀で囲まれた場所のなかにいて、なんとなく勉強する仕掛けができている」学校の中にいれば″すべての子ども”が学ぶかというと、そんなことはないだろうと私は思っています。いや、学んでくれるのならそれがいちばんいいのですが、そうだったら先生方は苦労しませんよね?


(つづく)

 

〔2018年4月30日:記事の一部を削除・修正しました。〕

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大学の「大綱化」(1991年)が引き起こしたもの/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(3)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)の

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。



 思えば自分自身が大学生だったのはもう30年も前のことであり、ここ10数年は仕事としても保護者としても、小・中学校にしか縁がありません。それ以前は仕事関係で高校生や大学生と触れる機会もあったし、大学関係者の知り合いもいたので、大学の様子をきいたり、シンポジウムやレクチャーにもぐりこんだりすることもありましたが、最近は高校生・大学生と接触することがほとんどなく、特に大学についてはよくわかっていませんでした。

 で、芦田さんのこの本を読んでいると、「最近、大学ってどうなってるの??」という気持ちになってきます。

 第7章の第3節のタイトルは「〈シラバス〉はなぜ機能しないのか ―― 大綱化運動の経緯と顛末」。同じ主旨の文章を「芦田の毎日」で読めます。↓
http://www.ashida.info/blog/2011/01/post_401.html

 なお、途中でBizCOLLEGEへのリンクがありますが、このリンク先の"「オンライン自己」という現象”が、第9章と関わってきます。

 本では「個性主義」という言葉が生まれた背景も書いてあって面白いです(p.213〜214)。芦田さんいわく、もともと〈個性〉教育という言葉(正確には「個性重視の教育」)は、日教組対策を横目で見ながら臨教審第一部会に集まった自由化論者たちと、第三部会の公教育規制派との対立の落としどころ、妥協の産物にすぎない、と。
 
 「個性主義」という言葉は「教育の自由化」と同じ意味を有していたが、「自由化」という言葉が教育現場で逆手にとられて職場規律を乱す行動を認める根拠になる恐れも含めて、「日教組が主張する『教育の自由』と混同されるのをきらったための"窮余の策"」(大森和夫)の言葉だったらしい、と。

 だから90年代以降の学校教育論における「個性」主義は、まともに機能するはずがなかった、と芦田さんは指摘します。そして問題なのは、自由か規制かではなく、(寺脇研が感じ取っていたように)中曽根臨教審の根本思想は学校教育=生涯学習論だというところにある。そのことを、芦田さんのこの著作は、いろんな角度から検証しようとしているのだと私は理解しました。

 で、大学の「大綱化」(1991年)の話が出てくるのですが、私は1987年に大学を卒業しているので、私の卒業後ということになります。芦田さんは、カリキュラムや科目設置の自由化がこの「大綱化」から謳われ、その分、大学は教育内容自体を自ら検証する必要が生じ、それが詳細なシラバスによる授業内容の公開だった、と解説しておられます。

 しかし、このシラバス運動はうまく機能しなかった。それは、80年代後半の中曽根臨教審路線に乗っかった個性教育・自主性教育路線が、大綱化によるカリキュラムの自由化の主旨を選択制強化へとねじ曲げてしまったから。

個性尊重、自主性尊重が、いつのまにか教育内容自体を、学習の対象と言うよりは自己表現の対象にすり替えてしまったのである。

(p.213)

 大綱化(カリキュラムの自由化)は、4年間のカリキュラム全体の目標を明確化し、その人材目標から、各科目編成、科目内容を定めなさいというものだったのに、それがいつのまにか選択制、コース制、専攻制などの「自己表現」カリキュラムに変貌していった、ということのようです。だからシラバスは、科目間連携(縦の専門ヒエラルキー連関、横の科目連携)の教員間検証資料とならずに、もっぱら選択科目登録のための学生サービスに成り下がった、と。

 で、このちょっと先で、「討論型、体験型授業の流行」という話が出てくるのですが、このような授業の形態は、演習、発表型、調査型、議論・討論型、体験型、ワークショップスタイルといったものになり、古典的な講義スタイルで授業をコントロールできない教員には救いの神だった、とも書いてあります(次回、もう少し詳しくみていきます)。

 というのは大学での話でしょうが、私が思うに、小学校の教員にとっては「救いの神」になりえなかったのではないか、と想像しています。小学生たちを相手にアウトプット型能力を養う形の授業を成立させるには、相当な力が先生に求められるのではなかろうか、と。いわゆる総合的な学習をどうもっていくか、ということです。ちなみに指導要領がどうあろうとも、できる先生はもう各教科のなかで総合的な学習をやっていたんじゃないかと思うし、できない先生は指導要領が変わっても急に「総合的な学習」はできないんじゃないかと思うわけであり。少なくとも小・中学校では、「古典的な講義スタイル」のほうがラクなんじゃないでしょうか、どうでしょうか。高校もそうかな?

 ところで私は、大学はともかく、小学校ではそのような授業を推奨したいと思っているのです、やはり。本を読めば読むほど芦田さんに共感するのに、自分は考え方が間違っていたとはどうしても思えないのです。それは高等教育と初等教育の違いでしょうか。いや、そうじゃないはず。芦田さんのおっしゃる「塀で囲まれた場所」での学校教育の意義は、時間を拘束されていることにも意味があると思うわけであり、長い長い時間かけて行われる〈学校教育〉は、まさに小学校から始まっているのだから。

 なお、すでに書きましたが、私は西川純さんが提唱するところの(固有名詞の)『学び合い』の内容はまったく知りません。芦田さんは学び合いという言葉を「まえがきにかえて」で二重かっこつきで出されているほか、第9章の本文(講演を記録したものだからか一重かっこになっている/p.326)でも出されていますが(なぜか講演者が聴衆から学ぶという話になっている、あと〈学び〉という変な自動詞はたぶんリクルートあたりが流行らせたとも書いてある)、芦田さんのいう「学び合い」がどういうものか疑問符が立っています。が、このあたりについては、また別の流れで考察したいと思っています。

 とにもかくにも現在の教育問題を考えるならば、少なくとも1980年代終わり頃から考えなくてはいけなかったのだ、としみじみ感じています。「生涯学習」という視点があると、いろいろなことが考えやすくなります。

(つづく)

 

〔2018年4月30日:記事の一部を削除・修正しました。〕

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学校教育は校門と塀によってこそ、「ジェネラル」で「リベラル」/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(2)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

   第7章 学校教育の意味とは何か
       ―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいます。


 前回、第2節を読んでいるときに青ざめた話を書きました。それは、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないことについてでした。ここでいう〈主体〉とは、いわば〈生涯学習〉でいうところの〈主体〉。学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化して、何か〈を〉学ぶという対象への集中より、それ以前に存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在するような、そんな〈主体〉。

 そんな〈主体〉を学校以前に認めると、
世界は、客観ではなくて、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。
(p.206)

 芦田さんは、〈学校教育〉以前の〈学びの主体〉とは、結局のところ、親や地域の(あるいは時代や社会の)影響を色濃く受けた〈主体〉にすぎないと指摘します。そして、〈学校教育〉に「上から」の「権力」が存在するとすれば、それは親や地域の影響という地上性を払拭するためのものだ、と。

 この指摘はショックであると同時に納得でした。もっと言えば感動ですらありました。そして、自分がこれまで忌み嫌ってきたものについて、考えなおさせられる機会となりました。

 私はこれまで「俯瞰する教育」が嫌いでした。それはつねに権威とセットになっているものでした。つまり権威がイヤだったのです。ニセ科学という言葉が苦手なことも、権威が苦手なことに関わっていると思います。権威そのものがイヤなのではなく、「だれかに借りた権威をふるわれること」がイヤだった。さらに、数学や科学が「権威」扱いされることもイヤでした。

 「権威」という言葉と「権力」という言葉は違う言葉ですが、どちらも「相手を服従させる、相手に強制する」という意味を含んでいると私は思います。しかし、学校教育にある「権力」は、「親や地域の影響という地上性を払拭するためのもの」と言われると、うむむと唸らざるを得ません。親や地域の影響は強く根深いものであるでしょう。そうそう簡単に引き剥がせるものではない。それを払拭するためには、なんらかの力(ちから)が必要だというのは、確かにそうだと思えます。

 実は、同じようなことを私も考えてはいたのです。生活ブログのほうで書いています。ちきりんさんのブログの記事に違和感を感じて書いたものです。>中学生や高校生が「市場」から学ぶということについての抵抗感(2018年4月30日追記:ブログ整理につきこの記事は削除しました)

 しかし、それを〈学校教育〉における「上から」の「権力」に結びつけて考えることはこれまでしていなかった。

 個性・意欲重視の教育は学力格差を広げるということについては、実際にデータから示されているとして、池田寛さんと苅谷剛彦さんたちの「関西調査」の話も出てきます。また、意欲を育てるのは学力であって、学力のないものは意欲もないこと、意欲や姿勢を尊重する「新学力観」型授業は、むしろ、その意欲こそを減退させるということも、この調査から結論づけられているそうです(「学力」というものが存在するかどうかについては、保留にしておきます)。
 結局のところ、中曽根臨教審以後の個性主義教育+意欲主義教育は、〈学校教育〉に《家族》と《地域》を持ち込んだだけのことである。それは〈キャリア教育〉の名の下に、《社会》が〈学校教育〉に入り込みつつあるのと同じ事態だ。
(p.208)

 〈学校教育〉が「家族や地域の影響を払拭する」ことは、社会的な階層流動性の原理であり、つまり〈学校教育〉は家族や地域から相対的に自立していなければならない。この自立性こそ「ジェネラル」エデュケーションや「リベラル」アーツのパワーを形成している、と芦田さんは語ります。ここまでくるともうショックは癒えて、勇気と希望がわいてきます。

 そのようにして学校が家族・地域・時代・社会から相対的に自立していることは、具体的な学校の構造として現れているというわけです。つまり、学校は塀で囲まれていて、立派な正門がある。塀でしっかりと囲まれているからこそ、この中に入ることで子どもたちは家族や地域や時代や社会の影響を受けない環境を具体的に得られる。そうであるならば、学校で行われる教育も「家族・地域・時代・社会」の影響を払拭するものでなければならないでしょう。

 芦田さんは言います。〈学校教育〉が対象とする児童・生徒・学生は、まだ社会人のようには〈目的〉を自立的に持てないが、この「持てない」というのは、何らかの限界や無能力を意味しているわけではない、と。何にでもなれるし、何を目的にすることもできるということが若者(児童・生徒・学生)の、つまり次世代を形成する人材の特質だと。
〈学校教育〉の対象である若者(児童・生徒・学生)は、〈学校教育〉を通じて目標を見出すのであって、そこに〈学びの主体〉は存在しない。〈学びの主体〉を形成するところが〈学校〉であって、〈学校教育〉は〈学校学習〉ではない。
(p.211)

 もう、ぐうの音も出ません。

(つづく)
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〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないということ/芦田宏直『努力する人間になってはいけない』第7章(1)

 芦田宏直『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』(ロゼッタストーン/2013年)

 第7章 学校教育の意味とは何か
     ―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて
       (個性・自主性教育はいかに間違ったのか)

を読んでいきたいと思います。



 芦田さんの(この本を書かれた時点での)肩書きは、ある大学の副学長であり、専門学校の顧問も務められているようです。また、以前は専門学校の校長先生もなさっていたとか。したがって、芦田さんの教育についての議論は、おもに高等教育についての内容となっています。しかし、芦田さんの議論は初等教育にも大きな影響を与えるものだと感じました。

 第1節は「学生は<顧客>か」という話から始まり、《消費者の時代》とからめた議論になっていて、消費社会にも大変に興味のある私は「わが意を得たり!」と揚々と読み始めたのですが、第2節に進んでしばらくしたころ、青ざめることになるのです。

 その分、〈学校教育〉にはその〈教員〉資格が公共的に条件づけられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員公共資格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在している。この意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。

(p.206)

(同じ主旨の文章を、ブログでも読めます↓
 http://www.ashida.info/blog/2011/06/post_411.html

 言うまでもなく私が青ざめたのは最後の一行。何しろこれまで自分は「主体的な学び」を理想としてきたし、主体的でない学びは学びたりえないと思ってきたから。それと同時に、「主体」って何よ?という問いかけもずっと自分のなかにありました。

 いきなり上記の部分を引用すると誤解を与えるかもしれませんが、芦田さんは〈生涯学習〉と〈学校教育〉の違いをふまえたうえで、その対比のもとに上記の話を出されています。(また、〈学校教育〉の意義は、子供を教育することを親の影響や地域の影響、あるいは古い世代の影響から隔離することにある、ということについても述べておられます。)

 つまり、〈生涯教育〉〈社会人教育〉は〈学校教育〉の反対概念である。〈生涯学習〉や〈社会人教育〉は、最終的に目的の定位者は受講者の方にあり、各講座は、すでに存在している受講者の目的に従属している。

 いろいろな講座を“必要”に応じてチョイスして、それらを何に役立てるかは、受講者側の自立した動機が決めており、そんなふうにして〈生涯教育〉や〈社会人教育〉には受講の〈主体〉が成立している。それは消費的な教育、〈顧客満足〉が問われる教育なのである、と。

 また、そもそも〈生涯教育〉や〈社会人教育〉が成立する社会はそれ自体が高度社会、高度な消費社会でしかないということも書いておられます。

 そういえば、もう10年以上も前のことになりますが、こんな話をきいたことがあります。ある大学の先生が、学生の親の年代の人が講座に参加していることをふまえて、「なぜそんなに勉強したがるのか(勉強したがる人が多いのか)」ということを言っていた、と。それをきいた私は、「なぜその年代の人が勉強をしてはいけないのか?」と疑問に思うのと同時に、なんとなく全面否定する気持ちにもなりませんでした。

 当時は、「勉強している自分に対する自意識」というイメージがそうさせたような気がしますが、もしかするとあのイメージは「消費者としての主体感覚」につながる話なのかもしれません。講座にお金を払っているとかいないとか、そういうことはおいといて。

 で、そんな性質がある生涯学習の内部で、〈学校教育〉を大々的に位置づけたのは80年代後半の中曽根臨教審であり、芦田さんはその思想的支柱ともいえる教育モデルについて言及するのです(p.202)。そのモデルは「復員軍人教育プログラム」だったと。

 中曽根臨教審という名称はあまりにも懐かしくて、そこから考えることをしていなかったのですが、1984年といえばまさに自分が教育系学部の学生だった時期です。しかし、臨教審の内容について考えた記憶がありません。

 芦田さんは、個性・意欲重視の教育は学力格差を拡大させるばかりではなく、意欲自体を衰退させると指摘します。「関心・意欲・態度」が評価に加わったのは、中曽根臨教審答申を受けた1992年の新学習指導要領以来のことなんですね。2002年のことを考えることはあっても、1992年のことはあまり考えていませんでした。

 ちなみに、教材の仕事をするうえで、いわゆる「観点別評価」に接触したことが少しだけあります。自分が作った問題ではなく、校正のときに(校正レベルで)チェックするだけの話だったので、まあ所詮カタチだけだろうという印象を持っていました。あと、若干面倒だなぁ、と。しかし、学校の先生方は実際に評価していくのだから、ないがしろにできない問題ですよね。

 なお、私が消費社会に興味を持っていたのは、消費者が主体的ではない社会が消費社会だと思っていたからです。買うのではなく買わされる、使うのではなく使わされる、選ぶのではなく選ばされる、そういう時代。だから、消費者が主体的であることは私にとっては理想で、それゆえシンプルライフに興味をもち、そのことについて生活ブログのほうでずっと書いてきました。

 ということも含め、いろいろ考えなおさなくちゃいけなくなりそうで、さらに、理想とする学校教育観については根本的なところから覆されそうになる予感もして、青ざめてしまったのですが、そもそもどうでもいい話ならば覆されることもないわけで、芦田さんの理路に納得する部分があればこそ、青ざめることになったのでしょう。

 そしていったん本を閉じた話については芦田宏直さんに出会った経緯と、第一&第二印象で書きました。本を閉じて他の方のレビューを読み、トークセッションの動画をネットで観て、第9章を通して読み、これはちゃんと考えたほうがいいな、と思ったしだい。

 芦田さんのおっしゃる学校教育は、私が忌み嫌ってきた系統学習につながるものなんでしょうか、どうなんでしょうか。先を読みながら、考えていきたいと思います。

(つづく)

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ガロア理論のどこまで納得していて、何に煮詰まっていて、これからどうしたいのか(2)

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』をメインの参考文献にしながら、webページや遠山啓『代数的構造』なども参考にして、ガロア理論のおおまかなところを理解しようとしてきました。その作業をするうちに、だんだんと膨らんでくる「気になりごと」がありました。

 それは、ガロアは群や体などの数学の概念が確立されていないなかで、ガロア理論をつくっていったということ。そのことと自分は、どうつきあっていきたいのかということ。

 たとえば、『数学ガール/ガロア理論』のp.381では、線型空間を使ってガロア理論を再整理したアルティンの名を、ミルカさんがちょっとだけ出しています。また、あとがきでは結城さんがこう書いておられます↓

 本書の執筆で最も悩んだのは第10章の構成でした。ミルカさんにガロアの第一論文を紹介するようにお願いしたところ、彼女は、ガロアが第一論文で省略したものをすべて補った証明に取り組み始めてしまいました。しかし、そこまで踏み込むと分量は増え、難易度も跳ね上がってしまいます。そのため、第一論文の主張に絞って話すよう彼女に再度お願いしました。

(p.437)

 第10章に入ろうとしたとき、結果的に、本編には書かれてない概念をいくつか勉強することとなりました(交代群など)。本編にないということはこれらの名前を知らなくてもガロアの第1論文は理解できる、ということです。だけど、煮詰まってもいたし、この機会に勉強しちゃえ〜という感じで扱いました。同じノリで、これを機会についでに勉強できる数学の概念が、もっともっとあることでしょう。

 さらに、もし私が「5次方程式には解の公式が存在しない」ことそのものを納得したいのであれば、他の参考書を並列して読むのも有効だし、必要なのだと思います。それこそアルティンが再整理した内容に触れるのもよいかもしれない。

 だけど、私はそれを望んでいるのだろうか…?

 目的としては、最初からドゥルーズ『差異と反復』の第四章を前より深く読むための準備という意識がありました。いまでもそれは忘れていません。しかし、『差異と反復』も終着点=目標ではなく、ひとつの手段です。

 自分のなかに「こういうことが考えたい」という希望がおぼろげにあって、それと同時に、予期せぬ出会いも楽しみにしていて、結果的に「そうなのよ!実はそれが考えたかったのよ!」というところまで、何かが運んでくれるのを待ちつつ、耳を澄ませているのですが、ちょっと声がきこえなくなっていたきょうこのごろ。

 そんななか、『数学ガール/ガロア理論』の巻末にある「参考文献と読書案内」のページをめくっていたら、ある1冊の本に目がとまりました。

  倉田令二朗『ガロアを読む-----第1論文研究』
   (日本評論社/1987年)

 紹介文のなかの次の一文にはっとしたから。

また、ラグランジュのガロアに対する影響について、大きく異なる二説を取り上げて論じています。

(p.447)

 理解できるかどうかわからなかったけれど、Amazonのレビューも背中をおしてくれて、注文。

 著者が倉田令二朗さんだということの意味も、自分にとって大きかったような気がします。このブログでは、遠山啓著作集の解説者としてお名前を出させていただいたことがあります→倉田令二朗が、「遠山啓の現代数学観は反圏論的」という、その意味

 遠山啓の論に取り組んでいるはずの自分が、肝心の19世紀についてまったく考えてこなかった、知ろうとしなかったことに今さらのように気づき、大いに反省したしだい。『数学つれづれ草』の解説でちゃんと安藤洋美さんが教えてくださっていたのに…↓

  近代の「関数」から、現代の「群」へ

 ガロアは、群論の扉を開くためにガロア理論を構築したのではないでしょう。ガロアには具体的に解決したい問題があった。その問題を解くうえで、結果的に群論の扉をあけることになった。でも、たとえ群や体は確立されていなくても、ガロアは数学の概念がなにひとつない状態でガロア理論を構築したわけではない。それまでに確立されていた概念はたくさんあるし、先駆者はたくさんいる。そして、身近にはリシャールという最高の教師がいたし、ラグランジュの研究があった。そのつながりを私は知りたいのかもしれない。人の営みとしての数学に触れたい。

 というところまでは、本が到着する前に書きました。で、いま手元に倉田令二朗さんの『ガロアを読む---第1論文研究』があります。1ページめからすでにびっくりなのですが(「多項式」というセクションタイトルで、ニュートン-ライプニッツ以来の果てしない困難を回避するところから話が始まるその雰囲気にちょっとびっくりした)、私にとってはやはり、最後の最後のページ(p.214)が印象的でした。1987年に倉田令二朗さんがいうところの、古典研究の困難と、2つの断絶。

 さらにわが国での数学状況,エートスはさまざまな古典との断絶がある.たとえばブルバキズムでは過去の数学は原則として現代数学に包摂されるという判断があり,この見地から書かれる教科書が多い.たとえばガロアの理論はそれがもともと方程式論であったことすら理解不可能であるようなやり方で体の一般論の基本定理の一つとしてえがかれる.
 第二の断絶は高校数学と18,19世紀の数学ないしは現代数学との断絶である.


 そして最後の2行はこうなっています↓
 

 なお「古典」という場合,私はゲーデル,コーエン(そして故あって)グロタンディエクもふくめている.

 さらに、序論の「謝辞」に、またまた亀井哲治郎さん(当時、『数学セミナー』の編集長)のお名前を発見。

 倉田令二朗さんのこの本に関しては、ブログに書きながら勉強するという形はとらず、ブログ上ではいったん蓋をしたいと思います。

 そして亀井哲治郎さんのあの文章について、ようやく書く段になりました。(

(つづく)

[2017年6月27日/記事の一部を削除・修正しました]

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ガロア理論のどこまで納得していて、何に煮詰まっていて、これからどうしたいのか(1)

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』を参考書にしながら、ドゥルーズ『差異と反復』第四章のごく一部を読むための準備をしてきましたが、どうも袋小路にはまってしまったようなので、ここらでいったん整理してみることにしました。

 結局、ガロア理論については何も書いていないに等しい状態であるものの、その骨子はなんとなくつかめてきました。方程式を解くときには、冪根を添加していかねばならず、冪根を添加すると体は拡大する。一方で、解の置換についての群を考えると、体が拡大するのと対応して群が縮小していく。その群の縮小は、正規部分群の連鎖になっていて、最終的には単位元だけの群にまでいきつく。いきつけたときに、方程式が解けるということになる。

 体の拡大と群の縮小の対応は、とある数値からみてもきれいに対応している。すなわち、2乗根を添加して体を拡大すると、そのときに正規部分群がつくる剰余群の要素の数は2になる。3乗根をとれば、剰余群の要素の数は3になる。

 3次方程式を例にとると、最初の段階でL^3とR^3を求めるために2次方程式をつくったときに、2乗根を添加していて、そのときに6つの解の置換は、[123][231][312]と[213][321][132]の2つに分けられる。言い方を変えると、L^3を求めることで[123][231][312]にしぼられる。そして、Lを求めるために3乗根をとったときに、[123][231][312]は、[123]にしぼられる。

 このとき登場する数値は、すべて「素数」になっています(というか、2と3だけですが)。ガロアは第一論文で、添加する冪根はp乗根(pは素数)だけを考えればいいとしたらしいのです。たとえば6乗根を添加したかったら、2乗根と3乗根を順番に添加すればいいので。6√○=3√(2√○)だから。

 先に見たように、2乗根を1つ添加すると、群は2個の剰余類に分割されました。3乗根を1つ添加すれば、3個に。つまり、p乗根を添加すると、剰余類はp個に分割されることになります。pは素数なのだから、縮小した群がつくる剰余群の要素数も素数になっているはず。このあたりのことは、感覚的にもわかります。2乗根をとるまえに2つのものがいっしょくたになっていたと考えると、2乗根をとればそれは2つに分かれるだろうし、3乗根ならば3つだろうし。

 そして4次方程式の場合は、2乗根→3乗根→2乗根→2乗根と添加していくことになり、正規部分群の連鎖で、剰余群の要素数は、24個→12個→4個→2個→1個と数が減っていくのです。この連鎖が、正規部分群の連鎖で示した、S4→A4→H4→C2→E4に対応します。

 5次以上になると、このように、正規部分群の連鎖が作れません。5次方程式の場合は解の置換は120通りで、最初の正規部分群は60通りあるのだけれど、このあと剰余群の要素数が素数になるような正規部分群が作れないということらしいのです。そもそも、自分自身と単位群のほかに正規部分群がない(ということについての証明が、遠山啓『代数的構造』に載っています)。

 プラスアルファの話として、正規部分群の連鎖であらわれる剰余群たちは、みんな巡回群になっているのだと思います。すなわち、ある1つの操作を繰り返すことですべての要素をつくれるような形。A4の場合は、これに[2134]を反応させるとS4に入っていてA4に入っていない要素をつくれるし、もう1度反応させるともとにもどります。また、H4に[1342]を繰り返すとA4のすべての要素をつくれます。

 ほんでもって、何に行き詰まっているかというと、まずは、ガロアの添加元(↓)の意味が理解できずにいます。

r=ζp^1θ1+ζp^2θ2+ζp^3θ3+・・・+ζp^(p−1)θp−1+ζp^pθp

 θが根であればラグランジュ・リゾルベントの一般式になりますが、θは根ではなく根の有理式です。これをどう具体的に作ればいいのかかがわからないのです。なお、添え字の数値が1ずつ増えているのは、ある条件を満たす置換を施しているから。なお、r^p∈Kの証明はわかるし、面白いです。ここはラグランジュ・リゾルベントと関わりが深いと思うので、是非とも理解したい。

 そして、2次方程式、3次方程式と同様に、4次方程式についても具体的に解の置換の集合が縮小されていく様子をみてみたいのに、それを実感できずに困っています。

 4次方程式の解の公式を求めるときには、2乗根→3乗根→2乗根→2乗根の添加で体を拡大していくのだから、単純な形で考えると、X^2=P → X'^3=Q → X''^2=R → X'''^2=S という順番で方程式を解く流れになるはずだと思うのですが、実際の解法をみてみると、確かに「3次方程式を解くなかでの2乗根と3乗根の添加→2つの2次方程式を解くなかでの2乗根2回の添加」という段取りになってはいるものの、それと解の置換がうまく対応していかないのです。というか、それを具体的に示せない。

 最初の正規部分群は交代群なのだから、交代群の置換のみをゆるす2次方程式が出てくると気持ちいいのですが…

 3次方程式の場合はきれいでした。ラグランジュ・リゾルベントのうちのL3(1)^3を考えたとき、解の置換によって2つの結果が出てくることがわかり、これが剰余類が2つになることに対応していたから。

 思えば、解の公式が導けるのは4次までなのだから、具体的な体の拡大&群の縮小をみることができるのは、2次・3次・4次方程式の3パターンだけです。ところが2次はシンプルすぎてかえってわかりにくい。3次はちょうどいいといえばいいけれど、体の拡大&群の縮小の段階が2段階だから、やっぱりさびしい。それに、複数確かめられるから具体的なのであって、そうなると4次方程式の場合がどうなるのかみてみないと、やっぱりしっくりこないのです。

 しかし、ラグランジュ・リゾルベントの定義式そのままの形で話を展開しているページになかなか出会うことができません。ちなみに、先日リンクした、ラグランジュ・リゾルベントでがんばっておられる方は(ブログのタイトルがフィボナッチ数列だ^^〜)、私が勘違いしていなければ、最終的にはL4(2)についての6次方程式、つまりL4(2)^2についての3次式を使っておられると思うのです。↓
http://blog.livedoor.jp/sh11235/archives/25311677.html

 このときにくくれる解の置換は、4次方程式のリゾルベントと格闘するの巻で示した L4(1)^4+L4(3)^4 と同じになるかと思います。たぶん。

 もしかして、4次方程式の場合の最初の「2乗根→3乗根」は、6次方程式を3次方程式とみなして、3次方程式を「2乗根→3乗根」として解くこととは対応していないのでしょうか。

 何かの2乗の3次方程式ではなく、何かの3乗の2次方程式とみなせるものができていれば、2乗根で2つに分けられ、3乗根で3に分けられて、それがクラインの4元群になってくれるととっても気持ちがいいのだけど…

 で、すっかり煮詰まってしまって、どうしたものかと思い、『数学ガール/ガロア理論』の巻末にある「参考文献と読書案内」をざっとながめていたのです。そうしたら、ある1冊の本に心がとまりました。その本に心がとまったそのことが、何かのメッセージだと感じました。しかし果たしてその道は、ドゥルーズ『差異と反復』にもどる道と同じ方向なのだろうか…と首を傾げつつ、本の到着を待っているところです。

 きっとへんなこといっぱい書いていると思いますが、気づいたその都度、訂正していきます。とりあえず経過記録ということで…

(つづく)
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結局勉強する偶置換・奇置換、交代群

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』を参考書にしながら、ドゥルーズ『差異と反復』第四章のごく一部を読むための準備をしています。『数学ガール/ガロア理論』についてはネタばれ注意です。m(_ _)m



 4次方程式のリゾルベントはまだ解決しておりませんが、結局、偶置換・奇置換、交代群も勉強しておくことにしました。『数学ガール/ガロア理論』に交代群は出てきていなかったよな?と思いきや、ちゃんとあるところ(別のところ)で出てましたね、さすが!(^^)

 きょうは『数学ガール/ガロア理論』からは離れます。というか、最近ちょっと離れ気味〜

 これまでカードの入れかえをイメージしつつ解の置換について考えてきたわけですが、たとえば4枚のうちの2枚だけをお互い入れかえて、ほかは動かさないような入れかえのことを、互換というのだそうです。それぞれの置換はいってみれば互換をつなげたものと考えることができますが、このなかで偶数個の互換による置換を偶置換、奇数個の互換による置換を奇置換というようです。

 たとえば、[3214]は1と3だけの互換で1個だから奇置換、[2143]は1と2、3と4の2個の互換だから偶置換ということになるかと思います。ちなみに[3214]は、[1234]の左2枚を交換して[2134]としたのち、まんなか2枚を交換して[2314]にして、さらに左2枚を交換して[3214]となると考えてもいいので、1つの置換を互換の組み合わせで示すとき、その表し方は一通りではなさそうです。ただし、偶数か奇数かは一致する、と。

 で、こうなってくると、まんなか2枚を入れかえることを[1324]と書くのは紛らわしいので、これからは(2 3)と書いていきたいと思います。「2と3を入れかえる」という意味で。[1234]---(1 2)---→[2134]---(2 3)---→[2314]---(1 2)---→[3214] という具合に。

 ほんでもって、偶置換の全体を交代群というらしいのです。つまり遇置換の集まりは群をなす、と。単位元も遇置換だから、単位元があってよかったね、という感じ。4枚のカードの入れかえでいえば、クラインの4元群の要素になる形のものはまさに偶置換だし、それ以外にも、

 (1 2)(1 3)→ [3124]●   (1 2)(1 4)→ [4132]○
 (1 2)(2 3)→ [2314]○   (1 2)(2 4)→ [2431]●
 (1 3)(1 4)→ [4213]●   (1 3)(3 4)→ [3241]○
 (2 3)(2 4)→ [1423]○   (2 3)(3 4)→ [1342]●

があります。なお、先に書いたように、( )( )の部分の表し方はいろいろあろうかと思います。●の4つ、○の4つは、群にはなれないけれど、まるでクラインの4元群のような関係性になっていますね。

 この12個の要素からなる交代群は、4枚のカードの入れかえの全体S4の部分群となっているわけですが、なんと、対称群(カードの並べかえやあみだぐじの群)の交代群は正規部分群になるのだとか。

 もはや正規部分群が遠い昔の話になってしまいました。正規部分群とはなんだったかというと、もとの群の要素を左から反応させても右から反応させても結果が同じになるような部分群のことでした。

 少し見方を変えると、3次の場合でいえば、S3の要素の1つをa、正規部分群をC3とした場合、C3★a=a★C3の左から、aの逆元をかけると、a^(−1)★C3★a=C3となり、正規部分群というのは、もとの集合の要素の逆元とその要素で挟み込んだ場合、自分自身と一致するような、そんな部分群だと捉えることもできます(このあたりの参考文献は遠山啓『代数的構造』です)。

 具体的に確認すると、

S3={[123],[231],[312],[213],[321],[132]}
C3={[123],[231],[312]}

(例1)[231]★{[123],[231],[312]}★[312]
        ={[231],[312],[123]}★[312]
        ={[123],[231],[312]}←C3

(例2)[321]★{[123],[231],[312]}★[321]
        ={[321],[213],[132]}★[321]
        ={[123],[312],[231]}←C3

 正規部分群以外だとこうはいかないのかどうか、C2a={[123],[213]}でやってみると、

(例3)[231]★{[123],[213]}★[312]
        ={[231],[321]}★[312]
        ={[123],[132]}←C2aにならない

(例4)[321]★{[123],[213]}★[321]
        ={[321],[231]}★[321]
        ={[123],[132]}←C2aにならない

 ※ただし、[213]のように、結果がC2aになる相手もいる。

 考えてみれば、(遇置換)★{遇置換の全体}★(遇置換)は、{遇置換の全体}のなかでぐるぐるまわしているだけだから結果は{遇置換の全体}となることがわかるし、(奇置換)★{遇置換の全体}★(奇置換)の場合は、(奇置換)★{遇置換の全体}で、それぞれの要素がいったん奇置換になり、そのあとまた奇置換を施してそれぞれの要素が偶置換にもどるので、やはり結果は{遇置換の全体}にもどるというのは、そりゃそうだろうな、とは思います。

 じゃあ、中央の集合が奇置換全体の集合でも同じことが言えるんじゃなかろうか?と思うわけなのですが、結局あれですかね、単位元が入っていなくて部分群になれないという、そういう問題なんですかね。どうなんでしょうか。

 ちなみに、対称群のなかの遇置換と奇置換の個数は同じになるのだそうです。1つの遇置換に、ある置換を1回施したら奇置換になるわけで、その相手ももとの集合にいるわけであり、逆のこともいえるから、同じ数ずつになってくれないと困るといえば困ります。

 ってことは、解の置換について考えるとき、最初の正規部分群はいつも交代群で、それはつまり全体の半分であり、最初の一歩の剰余類はつねに2つということになりそうですね。剰余類のところで出てきた{C3,C3★[213]}がまさにそのことを表している感じがします。→遇置換の集合と奇置換の集合の2つに分けられて、奇置換の集合は偶置換の集合に、ある1つの置換を施したものだ、と。

(つづく)
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クラインの4元群/レヴィ=ストロースもからめて寄り道

 結城浩『数学ガール/ガロア理論』を参考書にしながら、ドゥルーズ『差異と反復』第四章のごく一部を読むための準備をしています。『数学ガール/ガロア理論』についてはネタばれ注意です。m(_ _)m



 ひきつづき4次方程式のリゾルベントと格闘している最中ですが、気分転換も兼ねてクラインの4元群についてざっと眺めておくことにしました(ちなみに『数学ガール/ガロア理論』にこの名は出てきません)。

 4次方程式のガロア群の連鎖のなかで要素数4つのH4という群が出てくるのですが、これはいわゆる「クラインの4元群」になっているのです。元は[1234][2143][3412][4321]の4つ。[1234]のほかは、[1234]のうちのどれか2つを入れかえて、残りの2つも入れかえた形になっています。

 クラインの4元群については、論理学の中の群論的構造でその名を出しましたが、あのときちょっとだけ触れたレヴィ=ストロースのカリエラ型婚姻規則のことについてもう少し詳しくみていきます。といっても、帰ってこられなくなると困るので、寄り道程度でおさまるように。

 ちなみにレヴィ=ストロースというのは言わずとしれた構造主義の祖であり、平たくいえば人文科学に群論を応用した人です。協力者には数学者のアンドレ・ヴェイユがいました。

 今回の参考文献は山下正男『思想の中の数学的構造』(ちくま学芸文庫)です。なお、橋爪大三郎『はじめての構造主義』にもカリエラ型婚姻規則について書かれた部分があるのですが、いままでちゃんと読んでこなかったこの部分をこのたび初めてマジマジと読んでみたら「???」の状態に…。また、山下正男さんの本のなかでもよくわからない部分が…。

 そのあたりのことについて次のページに詳しくとりあげてあり、助かりました。感謝!↓

■犬Q日記>伝統論理学の数学的構造
http://ccoe.main.jp/easy_Diary2/ dia2011.html#September11_2011

 もうひとつ、別の方のページもリンクしておきますね。

■数学屋のめがね>
レヴィ・ストロースの「親族の基本構造」における群構造の理解
http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/51808939.html

 さて、ではその内容をざっと見ていきます。

 オーストラリアのカリエラ族は、部族内に4つのセクションをもっているそうで、これを仮にA、B、C、Dとすると、結婚できるのはAとBの人、CとDの人だけなのだそうです。そして、夫A+妻Bならば、子どもはDに所属し、夫C+妻Dならば、子どもはBに所属します(夫を先に書くことに深い意味はありません、そろえないとわかりにくいのでそろえます)。また、夫D+妻Cの子どもはAに所属し、夫B+妻Aの子どもはCに所属します。

     夫A+妻B → 子どもD
     夫C+妻D → 子どもB
     夫D+妻C → 子どもA
     夫B+妻A → 子どもC

 そうすると、子どもの性別によってその後の婚姻関係が変わってきます。いま、夫婦のタイプを上から順にM1、M2、M3、M4とし、子どもが男性である場合の婚姻のタイプを、両親がM1であればf(M1)というふうに表し、子どもが女性である場合の婚姻のタイプを、両親がM2であればg(M2)で表すとすると、

  f(M1)=M3、f(M2)=M4、f(M3)=M1、f(M4)=M2
  g(M1)=M2、g(M2)=M1、g(M3)=M4、g(M4)=M3

という関係が成り立ちます。

 この規則で磯野家・波野家・フグ田家を分けてみました。参照:ウィキペディア>サザエさんの登場人物

    A…波平の父、サザエ、カツオ、ワカメ、タイ子
    B…波平の母、マスオ、ノリスケ
    C…フネ、なぎえの夫、タラオ、イクラ
    D…波平、なぎえ

 fというのは、男の子を生むことにより新しいカップルを生み出す作用であり、gというのは、女の子を産むことにより新しいカップルを生み出す作用と考えればいいのかもしれません。そうすると、波平の両親は波平を生むことでf(M1)を行い、波平夫婦はサザエを生むことでg(M3)を行い、サザエ夫婦はタラオを生むことで、タラちゃんが結婚したらf(M4)を行うことになります。それはそうと花沢さんはBセクションに入ってるんでしょうか!?^^

 この、カップルの組み合わせ[M1 M2 M3 M4]を元と考え、新しいカップルの組を生み出すことを「演算」と考えて、群がつくれるかどうかを考えたいのです。先の一覧をもう一度。

  f(M1)=M3、f(M2)=M4、f(M3)=M1、f(M4)=M2
  g(M1)=M2、g(M2)=M1、g(M3)=M4、g(M4)=M3

 Mを省略して数字だけで考えていくと、親世代が[1234]であったら、息子たちの婚姻タイプは[3412]となります。1と3、2と4を交換した形です。そして、その息子たちの婚姻タイプは、[1234]となってもとにもどります。

 また、娘たちの婚姻タイプは、[2143]となります。1と2、3と4を交換した形です。こちらも、次の娘たちの婚姻タイプは[1234]にもどります。

 さらに、[1234]の息子たちの世代[3412]の娘たちの世代の婚姻タイプは[4321]となり、これは[1234]の世代で1と4、2と3を交換した形になってます。娘たちの息子世代も同様に。ということは結局、婚姻カップルの変遷の組み合わせは{[1234],[3412],[2341],[4321]}となり、クラインの4元群になっている、というわけです(たぶん)。

 レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』を読んでいないので(Amazonですごい値段〜)、何かと不安は残りますが、これ以上立ち入ると寄り道でなくなってしまうので、もとにもどりまーす。

(つづく)
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